・・・その時に心づいた事を後日のための備忘録としてここに書き止めておきたいと思う。ことによるとこんな事はもうとうにだれかが言いふるした陳腐な議論かもしれない。もしそういう文献に通じた読者があったら教えを請いたいと思うのである。 私の調べてみた・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・われわれは新しい流行の帽子を買うためにも、遠い国から来た葡萄酒を買うためにも、無論この銀座へ来ねばならぬが、それと同時に、有楽座などで聞く事を好まない「昔」の歌をば、なりたけ「昔」らしい周囲の中に聞き味おうとすればやはりこの辺の特種な限られ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・だんだん聞いて見ると、一方は浪の非常に荒い時に行き、一方は非常に静かな時に行った違から話がこう表裏して来たのである。固より見た通なんだから両方とも嘘ではない。がまた両方とも本当でもない。これに似寄りの定義は、あっても役に立たぬことはない。が・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・多少書を読み思索にも耽った私には、時に研究の便宜と自由とを願わないこともなかったが、一旦かかる境遇に置かれた私には、それ以上の境遇は一場の夢としか思えなかった。然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓によってこの大学・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って歩いた自分が、南に向って歩いていることを発見した。その瞬間、磁石の針がくるりと廻って、東西南北の空間地位が、すっかり逆に変ってしまっ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ かくの如くして多年の成跡を見るに、幾百の生徒中、時にあるいは不行状の者なきに非ずといえども、他の公私諸学校の生徒に比して、我が慶応義塾の生徒は徳義の薄き者に非ず、否なその品行の方正謹直にして、世事に政談にもっとも着実の名を博し、塾中、・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・自己を保護せずしてかえって自己を棄てたる俗世俗人に対してすら、彼は時に一、二の罵詈を加うることなきにしもあらねど、多くはこれを一笑に付し去りて必ずしも争わざるがごとし。「独楽」の中にたのしみは木芽にやして大きなる饅頭を一つほほばりし・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・なお床下通り二十九番地ポ氏は、昨夜深更より今朝にかけて、ツェ氏並びにはりがねせい、ねずみとり氏の激しき争論、時に格闘の声を聞きたりと。以上を総合するに、本事件には、はりがねせい、ねずみとり氏、最も深き関係を有するがごとし。本社はさらに深く事・・・ 宮沢賢治 「クねずみ」
・・・ 携帯口糧のように整理された文化の遺産は、時にとって運ぶに便利であろうけれども、骨格逞しく精神たかく、半野生的東洋に光を注ぐ未来の担いてを養うにはそれだけで十分とは云い切れまいと思える。 三代目ということは、日本の川柳で極めてリアル・・・ 宮本百合子 「明日の実力の為に」
・・・かように一面には当時の所謂文壇が、予に実に副わざる名声を与えて、見当違の幸福を強いたと同時に、一面には予が医学を以て相交わる人は、他は小説家だから与に医学を談ずるには足らないと云い、予が官職を以て相対する人は、他は小説家だから重事を托するに・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫