・・・私は翁の書を袖にしたなり、とうとう子規が啼くようになるまで、秋山を尋ねずにしまいました。 その内にふと耳にはいったのは、貴戚の王氏が秋山図を手に入れたという噂です。そういえば私が遊歴中、煙客翁の書を見せた人には、王氏を知っているものも交・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・いや、ただ一度、小雨のふる日に、時鳥の啼く声を聞いて、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それを潮に、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、唖のよう・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・「不如帰」「藤村詩集」「松井須磨子の一生」「新朝顔日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない。それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶箪笥の上・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・蝌斗が畑の中を泳ぎ廻ったりした。郭公が森の中で淋しく啼いた。小豆を板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが小休むと湿気を含んだ風が木でも草でも萎ましそうに寒く吹いた。 ある日農場主が函館から来て集会所で寄合うという・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生憎待たぬ時鳥。鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・口三味線で間にあって、そのまま動けば、筒袖も振袖で、かついだ割箸が、柳にしない、花に咲き、さす手の影は、じきそこの隅田の雲に、時鳥がないたのである。 それでは、おなじに、吉原を焼出されて、一所に浜町へ落汐か、というと、そうでない。ママ、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・前の杉山では杜鵑や鶯が啼き交わしている。 ふと下の往来を、青い顔して髯や髪の蓬々と延びた、三十前後の乞食のような服装の男が、よさよさと通って行くのが、耕吉に見下された。「あれは何者だ?」「あれですかい、あれは関次郎というばかでご・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・雑木山では絶えず杜鵑が鳴いていた。その麓に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・と蘆花の「不如帰」 国木田独歩の「愛弟通信」は、さきにもちょっと触れたように、日清戦争に従軍記者として軍艦千代田に乗組んで、国民新聞にのせた、その従軍通信である。云うまでもなく、小説ではない。通信である。それだけに、空想でこ・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・まして川霧の下を筏の火が淡く燃えながら行く夜明方の空に、杜鵑が満川の詩思を叫んで去るという清絶爽絶の趣を賞することをやだ。 幸田露伴 「夜の隅田川」
出典:青空文庫