・・・その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至る・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎる事も多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・夕立や門脇殿の人だまり夕立や草葉をつかむむら雀 双林寺独吟千句夕立や筆も乾かず一千言 時鳥の句は芭蕉に多かれど、雄壮なるは時鳥声横ふや水の上 芭蕉の一句あるのみ。蕪村の句のうちには時鳥柩をつか・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・子規○僕が死んだら道端か原の真中に葬って土饅頭を築いて野茨を植えてもらいたい。石を建てるのはいやだがやむなくば沢庵石のようなごろごろした白い石を三つか四つかころがして置くばかりにしてもらおう。もしそれも出来なければ円形か四角・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 子規子より「飯待つ間」の原稿送り来されたる同封中に猫の写生画二つあり。一は顔にして、一は尻高く頭低く丸くなりて臥しゐるところなり。その画の周囲に次の如き文章あり。もとより一時の戯れ書きに過ぎざれど、「飯待つ間」と相照応して面白・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・また、三間のなげしには契月と署名した「月前時鳥」の横額がかかげられている。これは恐ろしい雲の形と色とである。一緒に眺めていた栄さんが、広業って寺崎広業でしょう、ここの人かしら、お寺も広業寺っていうんでしょう、というには、よわった。私はそうい・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・、日本の「不如帰」徳富蘆花。そして、これらの悲劇は、当時のヨーロッパでさえも結核という病気については、ごくぼんやりした知識しかもたれていなかったことを語っている。肺結核にかかった主人公、女主人公たちは、こんにちの闘病者たちには信じられない非・・・ 宮本百合子 「『健康会議』創作選評」
・・・ついでだから話すが、今の文壇というものは、鴎外陣亡の後に立ったものであって、前から名の聞こえて居た人の、猶その間に雑って活動しているのは、ほとんど彼ほととぎすの子規のみであろう。ある人がかつて俳諧は普遍の徳があるとか云ったが、子規の一派の永・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・つけたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以て物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやその方が持ち帰り候伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば「聞く度に珍らしければ郭公いつも初音の心地こそすれ」と申す古歌・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・蓮華草の田がすき返され、塀の外田に蛙が鳴き、米倉の屋根に雀が巣くう、というような情景もそうであるが、やがて郭公の来鳴くころに、弟と笹の葉とりに山に行き粽つくりし土産物ばなしここへ来る一里あまりの田のへりを近路といへばまた帰り行く・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫