・・・また昔は、晩酌の最中にひょっこり遠来の友など見えると、やあ、これはいいところへ来て下さった、ちょうど相手が欲しくてならなかったところだ、何も無いが、まあどうです、一ぱい、というような事になって、とみに活気を呈したものであったが、今は、はなは・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・ と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」 案外の名答だと思いました。そうして、ふっと私は、闇屋になろうかしらと思いました。しかし、闇屋になって一・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・「そんなわけならば、私の晩酌用のウィスキイを、わけてあげます。お金は、こんなにたくさん要りません。実費でわけてあげます。そのウィスキイは、私は誰にも飲ませたくないから、ここに隠してあるのです。」 主人は、憤激しているようなひどく興奮のて・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・義兄に当たる春田居士が夕涼みの縁台で晩酌に親しみながらおおぜいの子供らを相手にいろいろの笑談をして聞かせるのを楽しみとしていた。その笑談の一つの材料として芭蕉のこの辞世の句が選ばれたことを思い出す。それが「旅に病んで」ではなくて「旅で死んで・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・夏の暑い盛りだと下帯一つの丸裸で晩酌の膳の前にあぐらをかいて、渋団扇で蚊を追いながら実にうまそうに杯をなめては子供等を相手にして色々の話をするのが楽しみであったらしい。松魚の刺身のつまに生のにんにくをかりかり齧じっているのを見て驚歎した自分・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・郷里の家の長屋に重兵衛さんという老人がいて、毎晩晩酌の肴に近所の子供らを膳の向かいにすわらせて、生のにんにくをぼりぼりかじりながらうまそうに熱い杯をなめては数限りもない化け物の話をして聞かせた。思うにこの老人は一千一夜物語の著者のご・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・勤め人の主は、晩酌の酔がまださめず、火鉢の側に胡座をかいて、にやにやしていた。「どうして未だなかなか。」「七十幾歳ですって?」「七十三になりますがね。もう耳が駄目でさ。亜鉛屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・それは殆ど毎日のよう、父には晩酌囲碁のお相手、私には其頃出来た鉄道馬車の絵なぞをかき、母には又、海老蔵や田之助の話をして、夜も更渡るまでの長尻に下女を泣かした父が役所の下役、内證で金貸をもして居る属官である。父はこの淀井を伴い、田崎が先に提・・・ 永井荷風 「狐」
・・・風呂は晩酌と同じ程、彼等へ魅力を持っていた。 川上の方は、掘鑿の岩石を捨てた高台になっていて、ただ捲上小屋があるに過ぎなかった。その小屋は蓆一枚だけで葺いてあった。だから、それはただ気休めである丈けではあったが、猶、坑夫たちはそこを避難・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・けれども一日の旅行を終りて草臥れ直しの晩酌に美酒佳肴山の如く、あるいは赤襟赤裾の人さえも交りてもてなされるのは満更悪い事もあるまい。しかしこの記者の目的は美人に非ず、酒に非ず、談話に非ず、ただ一意大食にある事は甚だ余の賛成を表する所である。・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
出典:青空文庫