・・・警戒所でとった煖炉の温度は、扉から出て二分間も歩かないうちに、黒龍江の下流から吹き上げて来る嵐に奪われてしまった。防寒靴は雪の中へずりこみ、歩くたびに畚のようにがく/\動いた。それでも足は、立ち止っている時にでも常に動かしていなければならな・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・馬鹿めが煖炉に火を絶やしやあがったな」なんかんというのよ。それからどうかすると、内に帰って来て上沓を穿こうと思うと、目っからないのね。マリイが棚の下に入れて置いたでしょう。ああ、こんなことを言ってここで亭主の蔭事を言っては済・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・両者共に、相手の顔を意識せず、ソファに並んで坐って一つの煖炉の火を見つめながら、その火焔に向って交互に話し掛けるような形式を執るならば、諸君は、低能のマダムと三時間話し合っても、疲れる事は無いであろう。一度でも、顔を見合わせてはいけない。私・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・そう言って、魔法の祭壇をどんと蹴飛ばし、煖炉にくべて燃やしてしまった。祭壇の諸道具は、それから七日七晩、蒼い火を挙げて燃えつづけていたという。老婆は、森へ帰り、ふつうの、おとなしい婆さんとして静かに余生を送ったのである。 これを要するに・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 焔の光に照らされて、大きな暖炉の煤けた空洞が現われる。焔は空洞の腹を嘗めて頂上の暗い穴に吸い込まれる。穴の奥でひとしきりゴオと風の音がすると、焔は急に大きくなって下の石炭が活きて輝き始める。 炉の前に、大きな肘掛椅子に埋もれた、一・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・棚や煖炉の上には粗製の漆器や九谷焼などが並べてある。中にはドイツ製の九谷まがいも交じっているようであった。 B氏は私の不審がっているのを面白そうに眺めるだけで、何の説明も与えてくれない。「まあ少し待ってくれ給え」と云っている。 奧の・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・西洋では煙管に好みを有って、大小長短色々取り交ぜた一組を綺麗に暖炉の上などに並べて愉快がる人がある。単に蒐集狂という点から見れば、此煙管を飾る人も、盃を寄せる人も、瓢箪を溜める人も、皆同じ興味に駆られるので、同種類のもののうちで、素人に分ら・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・これは大変な荷物だなと思って板の間に並べてある本と、煖炉の上にある本と、机の上にある本と、書棚にある本を見廻した。せんだって「ロッチ」から古本の目録をよこした「ドッズレー」の「コレクション」がある。七十円は高いが欲い。それに製本が皮だからな・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・壁に塗り込んだ煖炉の上に燭台が載せてある。 ピエエル・オオビュルナンはこんな光景を再び目の前に浮ばせてみた。この男はそう云う昔馴染の影像を思い浮べて、それをわざとあくまで霊の目に眺めさせる。そうして置けば、それが他日物を書くときになって・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
発動機の工合がわるくて、台所へ水が出なくなった。父が、寝室へ入って老人らしい鳥打帽をかぶり、外へ出て行った。暖炉に火が燃え、鳩時計は細長い松ぼっくりのような分銅をきしませつつ時を刻んでいる。露台の硝子越しに見える松の並木、・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
出典:青空文庫