・・・するとそこに洋食屋が一軒、片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好いな。」――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・ 権助は口入れ屋の暖簾をくぐると、煙管を啣えていた番頭に、こう口の世話を頼みました。「番頭さん。私は仙人になりたいのだから、そう云う所へ住みこませて下さい。」 番頭は呆気にとられたように、しばらくは口も利かずにいました。「番・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・のみならずまだ新しい紺暖簾の紋も蛇の目だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗きに行った。清正は短い顋髯を生やし、金槌や鉋を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。 三三 七不思議 そのころ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・もっとも今日は謹んで、酒は一滴も口にせず、妙に胸が閊えるのを、やっと冷麦を一つ平げて、往来の日足が消えた時分、まるで人目を忍ぶ落人のように、こっそり暖簾から外へ出ました。するとその外へ出た所を、追いすがるごとくさっと来て、おやと思う鼻の先へ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・――徒らに鼻が隆く目の窪んだ処から、まだ娑婆気のある頃は、暖簾にも看板にもとかいて、煎餅を焼いて売りもした。「目あり煎餅」勝負事をするものの禁厭になると、一時弘まったものである。――その目をしょぼしょぼさして、長い顔をその炬燵に据えて、いと・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・中から渡される小遣は髪結の祝儀にも足りない、ところを、たといおも湯にしろ両親が口を開けてその日その日の仕送を待つのであるから、一月と纏めてわずかばかりの額ではないので、毎々借越にのみなるのであったが、暖簾名の婦人と肩を並べるほど売れるので、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・けれども、以前見覚えた、両眼真黄色な絵具の光る、巨大な蜈むかでが、赤黒い雲の如く渦を巻いた真中に、俵藤太が、弓矢を挟んで身構えた暖簾が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯、と白抜きのに懸替って、門の目印の柳と共に、枝垂れたようになって、折から森・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・が、一向に張合なし……対手は待てと云われたまま、破れた暖簾に、ソヨとの風も無いように、ぶら下った体に立停って待つのであるから。「どこへ行く、」 黙って、じろりと顔を見る。「どこへ行くかい。」「ええ、宅へ帰りますでございます。・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・加うるに艶妻が祟をなして二人の娘を挙げると間もなく歿したが、若い美くしい寡婦は賢にして能く婦道を守って淡島屋の暖簾を傷つけなかった。六 川越の農家の子――椿岳及び伊藤八兵衛 爰に川越在の小ヶ谷村に内田という豪農があった。その・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
春先になれば、古い疵痕に痛みを覚える如く、軟かな風が面を吹いて廻ると、胸の底に遠い記憶が甦えるのであります。 まだ若かった私は、酒場の堅い腰掛の端にかけて、暖簾の隙間から、街頭に紅塵を上げて走る風に眼を遣りながら独り杯を含んでいま・・・ 小川未明 「春風遍し」
出典:青空文庫