・・・この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。 そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲炉裡端の火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うので・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・話をしているようだよ…… (四辺そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒で、黙っていて、暗号が出来ると、いつも奥様がおっしゃるも・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音ぐらい聞えそうなもんだったが、出火の報鐘さえ聞かなかった。怎うして焼けたろう? 怎うしても焼けたとは思われない。 暗号ではないかとも思った。仮名が一字違ってやしないかとも思っ・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ クヅネツォフからの暗号の手紙を田川の頭のさきで振りまわした。それには、アルファベットとアラビア数字がきれぎれに、一字一字、全部で三十字ほど折れ釘のように並んでいた。クヅネツォフは、対岸の、北の村に住んでいる富農だ。パン粉を買い占めたり・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・があるであろうが、この薄層の一枚一枚にしるされた自然の暗号記録はわれわれには容易に読めない。まただれも読もうともしないようである。 人間はなんと言ってもやはりいちばん人間に興味があるようである。軽井沢の町や新軽井沢の林間を歩いていて行き・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・そんな時には手帳の端へ暗号のような言葉でその考えの端緒を書き止めたりしていた。しかしそのような状態はいつまでも持続するわけではなくて、これと反対な倦怠の状態も週期的に循環して来た。そういう時には何を読んでも空虚であった。そこに書いてある表面・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・もっともその符徴はたいていだれでも知っていたので、秘密の暗号でもなんでもなくただ数字の代わりにかたかなを使ったというだけのものであった。たとえばアンカナというのは一円二十五銭の事であったが、これが自分の頭によく残っている。イタリアの地名のよ・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・町の特殊な美しさも、静かな夢のような閑寂さも、かえってひっそりと気味が悪く、何かの恐ろしい秘密の中で、暗号を交しているように感じられた。何事かわからない、或る漠然とした一つの予感が、青ざめた恐怖の色で、忙がしく私の心の中を馳け廻った。すべて・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・という暗号なのだ。それをきくと私は安心して茶の間に戻って来る。そして、小さな女中にいいつける。「じゃあ、もう一人前お茶わんがいるよ」 私の熱心な拍子木に迎えられ、遠い家から晩さんに来るのは、たれだろう? 親切な読者たちは、それが・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・私たちが、ものをいわされず、書かされないとき、ちょうど節穴から一筋の日光がさしこむようにチラリと洩らされる正義の情、抑圧への反抗は、いわば、人々の間に暗黙のうちに契約となったいくつかの暗号のようなものであった。義太夫ずきの爺さんが、すりへっ・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
出典:青空文庫