・・・青空には熱と光との暗影をもった、溶けそうな白い雲が銅をみがいたように輝いて、紫がかった鉛色の陰を、山のすぐれて高い頂にはわせている。山に囲まれた細長い渓谷は石で一面に埋められているといってもいい。大きなのやら小さなのやら、みかげ石のまばゆい・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・ 多くのことは、人の心の持方、人の境遇の転換によって、波の寄せるように、暗影と光明とを伴って一去一来しているのだ。この意味に於て、私は時が偉大な裁判者だと信ずるのである。 小川未明 「波の如く去来す」
・・・「それは修学期の最後における恐ろしい比武競技のように、遥かの手前までもその暗影を投げる。生徒も先生も不断にこの強制的に定められた晴れの日の準備にあくせくしていなければならない。またその試験というのが人工的に無闇に程度を高く捻じり上げたもので・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・その後教授が半ばはその研究の資料を得るために半ばはこの自分を追跡する暗影を振り落とすためにアフリカに渡ってヘルワンの観測所の屋上で深夜にただ一人黄道光の観測をしていた際など、思いもかけぬ砂漠の暗やみから自分を狙撃せんとするもののあることを感・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・漱石の遺作で「暗翳」という未完成の作品がございましてね、なかなかどこにもないんですのよ、それを宅がやっと探して来てくれまして、と指環をいじりながら「明暗」のことを話していたその女のひとの生活の中でも、主婦としての毎日の目にはマッチのないこと・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
出典:青空文庫