・・・信乃が滸我へ発足する前晩浜路が忍んで来る一節や、荒芽山の音音の隠れ家に道節と荘介が邂逅する一条や、返璧の里に雛衣が去られた夫を怨ずる一章は一言一句を剰さず暗記した。が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・当時の文章教育というのは古文の摸倣であって、山陽が項羽本紀を数百遍反覆して一章一句を尽く暗記したというような教訓が根深く頭に染込んでいて、この根深い因襲を根本から剿絶する事が容易でなかった。二葉亭も根が漢学育ちで魏叔子や壮悔堂を毎日繰返し、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・を筆写したり暗記したりする勉強の仕方は、何だかみそぎを想わせるような古い方法で、このような禁慾的精進はその人の持っている文学的可能性の限界をますます狭めるようなもので、清濁あわせのむ壮大な人間像の創造はそんな修業から出て来ないのではないかと・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・と彼の暗記しおる公報の一つ、常に朗読というより朗吟する一つを始めた、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす、本日天候晴朗なれども波高し――ここを願います、僕はこの号外を読むとたまらなくうれしくなるのだから――ぜひこ・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・ かような時期においては反復熟読して暗記するばかりに読み味わうべきものである。 一度通読しては二度と手にとらぬ書物のみ書庫にみつることは寂寞である。 自分の職能の専門のための読書以外においては、「物識り」にならんがために濫読する・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・彼女は学士が植えて楽む種々な朝顔の変り種の名前などまでもよく暗記んじていた。「高瀬さんに一つ、私の大事な朝顔を見て頂きましょうか」 と学士が言って、数ある素焼の鉢の中から短く仕立てた「手長」を取出した。学士はそれを庭に向いた縁側のと・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・一つの暗記物に堕してしまった。このとき、数学の自由性を叫んで敢然立ったのは、いまのその、おじいさんの博士であります。えらいやつなんだ。もし探偵にでもなったら、どんな奇怪な難事件でも、ちょっと現場を一まわりして、たちまちぽんと、解決してしまう・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・民衆だって、ずるくて汚くて慾が深くて、裏切って、ろくでも無いのが多いのだから、謂わばアイコとでも申すべきで、むしろ役人のほうは、その大半、幼にして学を好み、長ずるに及んで立志出郷、もっぱら六法全書の糞暗記に努め、質素倹約、友人にケチと言われ・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・ノオトのおなじ文章を読み、それをみんなみんなの大学生が、一律に暗記しようと努めていた。われは、ポケットから煙草を取りだし、一本、口にくわえた。マッチがないのである。 ――火を借して呉れ。 ひとりの美男の大学生をえらんで声をかけてやっ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・本屋から千葉の住所を諳記して来てかきとって置いたのが去年の八月である。それを役立てることが今迄できなかったけれども。『太宰どん! 白十字にてまつ。クロダ。』大学の黒板にかかれてあったのは、先日であったろうか。『右者事務室に出頭すべし、津島修・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫