・・・ 『創作』という言葉を、誰が、いつごろ用いたのでしょう、など傍の者の、はらはらするような、それでいて至極もっともの、昨夜、寝てから、暗闇の中、じっと息をころして考えに考え抜いた揚句の果の質問らしく、誠実あふれ、いかにもして解き聞かせてもらい・・・ 太宰治 「喝采」
・・・ 十二 一と頃、学生の観客の多い映画館で、ニュース映画の中にたまたまソビエトの赤旗の行列などがスクリーンに現われると、観客席の暗闇から盛んな拍手が起るのであった。ことによると、自分の中にもどこかに隠れているら・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・を復習しながら、子供のように他愛のない笑いを車内の片隅の暗闇の中で笑っている自分を発見したのであった。 緊張のあとに来る弛緩は許してもらってもいいであろう。そのおかげでわれわれは生きて行かれるのである。伸びるのは縮まるためであり、縮むの・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・鬱陶しいほど両側から梢の蔽い重なった暗闇阪を降り尽して、左に曲れば曙湯である。雨の日には浴客も少なく静かでよい。はいっているうちにもう燈がつく。疲労も不平も洗い流して蘇ったようになって帰る暗闇阪は漆のような闇である。阪の中程に街燈がただ一つ・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・この坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音がしきりにする。この暗闇な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。暗闇を弾き返すような勇ましい音であった。 この時女は、裏の楢の木に繋いである、白い馬を引き出した。鬣を三度撫でて高い背にひらりと飛び乗った。鞍もない鐙もない裸馬であった。長く白い足で、太腹を蹴ると、馬・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・クレムリンの長い外壁は灯のけない暗闇だから、遠いそこだけが何とも云えず輝かしい。 五色のイルミネーションは対岸のモスクワ市発電所にもあって、三百六十四日はむっつり暗いモスクワ河の水を色とりどりにチラつかせている。 モスクワの群集はイ・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ 雨はやんだらしいが、雲は晴れないと見え、硝子窓の外は真暗闇だ。楓の軟かい葉から葉に伝って落ちる点滴の音がやや憂鬱に響いて来る。夜の闇の濃さが、古歌を思い出させた。五月闇おぼつかなきに郭公 山の奥より鳴きていづなり・・・ 宮本百合子 「新緑」
神奈川県足柄郡下足柄村十三部落 演習中の野宿反対 人家に迷惑をかけず宿やにとめろ 宿舎のない演習なんかやめたがいいんだ。○江東地区の一人、暗闇夜、自転車をとばして地区のデンタンを電車・乗合自動車のうしろ・・・ 宮本百合子 「大衆闘争についてのノート」
・・・ 彼女は、まるで暗闇の中で路を見失ったように、がっかりし、希望がなくなっていた先頃の自分を想い出すと、我ながら可哀そうになって、つい涙をこぼしながらも、あらゆる歓びと希望がより一層よい形で蘇返って来た今の嬉しさに泣く下から微笑を押えるこ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫