・・・ ところが三月の二十何日か、生暖い曇天の午後のことである。保吉はその日も勤め先から四時二十分着の上り列車に乗った。何でもかすかな記憶によれば、調べ仕事に疲れていたせいか、汽車の中でもふだんのように本を読みなどはしなかったらしい。ただ窓べ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ただ、周囲には多くの硝子戸棚が、曇天の冷い光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然と懸け並べていた。本多子爵は杖の銀の握りに頤をのせて、しばらくはじっとこの子爵自身の「記憶」のような陳列室を見渡していたが、やがて眼を私の方に転じると、沈ん・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ ある生温かい曇天の午後、ラップは得々と僕といっしょにこの大寺院へ出かけました。なるほどそれはニコライ堂の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔や円屋根をながめた時・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜の夢を思い出した。 それは彼女がたった一人、暗い藪だか林だかの中を歩き廻っている夢・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・自分はやっと日の暮に病院へ出かける時間を得た。曇天はいつか雨になっていた。自分は着物を着換えながら、女中に足駄を出すようにと云った。そこへ大阪のN君が原稿を貰いに顔を出した。N君は泥まみれの長靴をはき、外套に雨の痕を光らせていた。自分は玄関・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・高い曇天の山の前に白壁や瓦屋根を積み上げた長沙は予想以上に見すぼらしかった。殊に狭苦しい埠頭のあたりは新しい赤煉瓦の西洋家屋や葉柳なども見えるだけに殆ど飯田河岸と変らなかった。僕は当時長江に沿うた大抵の都会に幻滅していたから、長沙にも勿論豚・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・…… ――――――――――――――――――――――――― 岩とも泥とも見当のつかぬ、灰色をなすった断崖は高だかと曇天に聳えている。そのまた断崖のてっぺんは草とも木とも見当のつかぬ、白茶けた緑を煙らせている。保吉は・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・が、両大師前にある木などは曇天を透かせた枝々に赤い蕾を綴っている。こういう公園を散歩するのは三重子とどこかへ出かけるよりも数等幸福といわなければならぬ。…… 二時二十分! もう十分待ちさえすれば好い。彼は帰りたさをこらえたまま、標本室の・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・ 或生暖かい曇天の午後、僕は或雑貨店へインクを買いに出かけて行った。するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としていた。僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思う程、揃って背が低かった。そうして又この町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分ら・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
出典:青空文庫