九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑おうている。西郷の銅像の後ろから黒門の前へぬけて動物園の方へ曲ると外・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
一 昭和九年八月三日の朝、駒込三の三四九、甘納豆製造業渡辺忠吾氏が巣鴨警察署衛生係へ出頭し「十日ほど前から晴天の日は約二千、曇天でも約五百匹くらいの蜜蜂が甘納豆製造工場に来襲して困る」と訴え出たという記・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・寒い曇天無風の夜九段坂上から下町を見るといわゆるロンドンフォッグを思わせるものがある。これも市民のモーラルを支配しないわけにはゆかないであろう。 五 上野のデパートメントストアの前を通ったら広小路側の舗道に幕を張・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・ 十一月十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より〕 十一月十一日 水 第十九信 曇天 午後二時外苑で三万人の学生や青年団が音楽祭をやって君ガ代をうたっている ラジオ。 きのうは、先月のときから見ると、や・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・きょうは、曇天ではあるが気候は暖かで、私は毛糸のむくむくした下へ着るものは我知らずぬいでいるくらいです。今年はこれから一月一杯オーバーなしですごせる程の暖い正月だとあったけれども、どうかしら。そちらはこの暖かさがどの位おわかりになるのでしょ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・汲出櫓の上に登っているのであるが、右手を見ると、粗末な石垣のすぐそこから曇天と風とで荒々しく濁ったカスピ海がひろがり、海の中へも一基、二基、三基と汲出櫓が列をなしてのり込んで行っている。 風と海のざわめきとの間にも微かなキューキューいう・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・ 今日は四月上旬の穏かな気温と眠い艷のない曇天とがある。机に向っていながら、何のはずみか、私は胸が苦しくなる程、その田舎の懐しさに襲われた。斯うやっていても、耕地の土の匂い裸足で踏む雑草の感触がまざまざと皮膚に甦って来る。――子供の時分・・・ 宮本百合子 「素朴な庭」
近くには黄色く根っ株の枯れた田圃と桑畑、遠くにはあっちこっちに木立と森。走りながら単調な窓外の景色は、時々近く曇天の下に吹きつけられて来る白い煙の千切れに遮られる。 スチームのとおっている汽車の中はどっちかというと閑散・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
・・・其故、花や陶器の放つ色彩が、圧迫的に曇天の正午を生活して居るように感じられる。程経って若い亜米利加の男が一人入って来た。入口に近い定席につくや否や、彼は、押えきれないらしい大きな倦怠から、うんと伸びをした。前菜を捧げた給仕に、苦笑し乍ら呟く・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・ 五月二十日 雨もよいの湿っぽい午後 五時前 曇天の下に目の前の新緑はぼさぼさと見えた。 大工の働いている新築の工事場で 全体の光景がいつもより手近に見え しめりをふくんで/しめっぽく 新しい木の匂い、おがく・・・ 宮本百合子 「窓からの風景(六月――)」
出典:青空文庫