・・・ただ、八百屋さんの前に、ラジオニュウスを書き上げた紙が貼られているだけ。店先の様子も、人の会話も、平生とあまり変っていない。この静粛が、たのもしいのだ。きょうは、お金も、すこしあるから、思い切って私の履物を買う。こんなものにも、今月からは三・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・ 合い憎のことには、私の場合、犬馬の労もなにも、興ざめの言葉で恐縮であるが、人糞の労、汗水流して、やっと書き上げた二百なにがしの頁であった。それも、決して独力で、とは言わない。数十人の智慧ある先賢に手をとられ、ほとんど、いろはから教えた・・・ 太宰治 「創作余談」
・・・天神様や観音様にお礼を申し上げたいところだが、あのお光の場合は、ぬかよろこびであったのだし、あんな事もあるのだから、やっと百五十一枚を書き上げたくらいで、気もいそいその馬鹿騒ぎは慎しまなければならぬ。大事なのは、これからだ。この短篇小説を書・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・私は、身勝手な、遺書と称する一聯の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸けていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・いま急に、それに気附いて、おう寒い、と小声で呟き、肩をすぼめて立ち上り、書き上げた原稿を持って廊下へ出たら、そこに意味ありげに立っている末弟と危く鉢合せしかけた。「失敬、失敬。」末弟は、ひどく狼狽している。「和ちゃん、偵察しに来たの・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 科学的論文を書く人が虚心でそうして正直である限りだれでも経験するであろうことは、研究の結果をちゃんと書き上げみがきあげてしまわなければその研究が完結したとは言われない、ということである。実際書いてみるまではほとんど完備したつもりでいる・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・とうとう鉄道線路のそばの崖の上に腰かけて、一枚ざっとどうにか書き上げてしまった。 十月十八日、火曜。午後に子供を一人つれて、日暮里の新開町を通って町はずれに出た。戦争のためにできたらしい小工場が至るところに小規模な生産をやっている。・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・を書き上げた。雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・一度草稿を作ってその通りのものを丹念に二度書き上げたものは、もはや半分以上魂の抜けたものになるのは実際止み難い事である。津田君はそういう魂のないものを我慢して画く事の出来ぬ性の人であるから、たとえ幾枚画き改めたところで遂に「仕上げ」の出来る・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・をようやく書き上げたと同じ刻限である。池辺君が胸部に末期の苦痛を感じて膏汗を流しながらもがいている間、余は池辺君に対して何らの顧慮も心配も払う事ができなかったのは、君の朋友として、朋友にあるまじき無頓着な心持を抱いていたと云う点において、い・・・ 夏目漱石 「三山居士」
出典:青空文庫