・・・余もこの経を拝見せしに、その書体楷法正しく、行法また精妙にして―― と言うもの即これである。 ちょっと或案内者に申すべき事がある。君が提げて持った鞭だ。が、遠くの掛軸を指し、高い処の仏体を示すのは、とにかく、目前に近々と拝まるる・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・文句もそうであるが、書体はいっそう滑稽であった。糊刷毛かなにかでもって書いたものらしく、仰山に肉の太い文字で、そのうえ目茶苦茶ににじんでいた。落款らしいものもなかったけれど、僕はひとめで青扇の書いたものだと断定を下した。つまりこれは、自由天・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・中に銀杏がえしの女の頭がいくつもあって、それから Fate という字がいろいろの書体でたくさん書き散らしてあった。仰向きに寝ていた藤野が起き上がってそれを見ると、青い顔をしたが何も言わなかった。 九 楝の花・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・また、古びた徐園の廻廊に懸けられた聯句の書体。薄暗いその中庭に咲いている秋花のさびしさ。また劇場や茶館の連った四馬路の賑い。それらを見るに及んで、異国の色彩に対する感激はますます烈しくなった。 大正二年革命の起ってより、支那人は清朝二百・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・ 千朶山房の草稿もその晩年『明星』に寄せられたものを見るに無罫の半紙に毛筆をもって楷行を交えたる書体、清勁暢達、直にその文を思わしむるものがあった。 わたしはしばしば家を移したが、その度ごとに梔子一株を携え運んで庭に植える。啻に花を・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・しかしその書体もけっして「其面影」流ではなかった。 それから、ずっと打絶えた。次に逢ったのは君が露西亜へ行く事がほぼ内定した時のことである。大阪の鳥居君が出て来て、長谷川君と余を呼んで午餐を共にした。所は神田川である。旅館に落ち合って、・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・それから一六風か何かの書体を書いていた。其頃僕も詩や漢文を遣っていたので、大に彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・八の字が、鳩が二羽向いあったような書体にできているのが面白い。そのほかにもいろいろの額がある。たいていは家中のものの射抜いた金的を、射抜いたものの名前に添えたのが多い。たまには太刀を納めたのもある。 鳥居を潜ると杉の梢でいつでも梟が鳴い・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 題辞の書体は固より一様でない。あるものは閑に任せて叮嚀な楷書を用い、あるものは心急ぎてか口惜し紛れかがりがりと壁を掻いて擲り書きに彫りつけてある。またあるものは自家の紋章を刻み込んでその中に古雅な文字をとどめ、あるいは盾の形を描いてそ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・の所有者にとつては、あの幾何学公式のやうな書体で書かれた「純粋理性批判」の第一頁を読むだけでも、独逸的軍隊教育の兵式体操を課されたやうで、身体中の骨節がギシギシと痛んで来る。カントは頭痛の種である。しかし一通り読んでしまへば、幾何学の公理と・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫