・・・と忽然最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心からかわいいと思った時の美しい笑い顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよと揺り起こす。かれの頭はいつか子供の時代に飛び返っている。裏の入・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 目を瞠るまでもなく、つい眼前に、高らかに、咽喉ふくらまして唄っている裸形のうちに、彼が最愛の息子利助がいたのだ! 利平は、呆然としてしまった。 そんな筈はない……確かに会社の中へ、トラックで送り込んだ筈の利助だったのが……しかし、・・・ 徳永直 「眼」
・・・人類として、彼等の尊重すべき伴侶として立つべき位置に立てられて幾代かを経た此方の女性と、彼女の最愛の「良人」をさえ「主人」と呼んで暮して来た日本女性との間に、其の力ある発展に於て差異を持って居るのは、寧ろ悲しむべき当然と申さなければ成ないの・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
かなしい昔の母たちが最愛の娘のためにととのえてやる生涯の仕度は、幾重ねかの嫁入衣装と一ふりの懐剣とであった。現代の若い母が、わが娘への深い愛情をひろく次の世代の女性たちの幸福への建設というところまでひろげて感じ、その暖いた・・・ 宮本百合子 「『進み行く娘達へ』に寄せて」
・・・その三月の時、日頃彼を熱愛していた母は、最愛の息子が自殺して苦悶から逃げようとした態度を激励的に叱責するよりも先に、その純情と苦悶とに自分がうたれ、感傷し、感情の上で弟にまきこまれた。五ヵ月後、彼が遂に死んだ時も、母はこの濁世に生きるには余・・・ 宮本百合子 「母」
出典:青空文庫