・・・クサカの怖れは打たれる怖れではない。最早鋭い牙を、よしや打たれてもこの人たちに立てることが出来ぬようになったのを怖れるのだ。平生の人間に対する憤りと恨みとが、消えたために、自ら危んだのだ。どの子もどの子も手を出して摩るのだ。摩られる度に、犬・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ あわれ、覚悟の前ながら、最早や神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。 さて心がら鬼のごとき目をみひらくと、余り強く面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥に且つ幽に、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 最早、最後かと思う時に、鎮守の社が目の前にあることに心着いたのであります。同時に峰の尖ったような真白な杉の大木を見ました。 雪難之碑のある処―― 天狗――魔の手など意識しましたのは、その樹のせいかも知れません。ただしこれに目標・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・二代目喜兵衛が譲り受けた軽焼屋はいつごろからの店であったか、これも解らぬが、その頃は最早軽焼屋の店は其処にも此処にもあってさして珍らしくなかったようだ。 が、長崎渡りの珍菓として賞でられた軽焼があまねく世間に広がったは疱瘡痲疹の流行が原・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・文人は最早非常なる精力を捧ぐる著述に頼らなくても習作的原稿、断片的文章に由て生活し得るようになった。文人は最早新聞社の薄い待遇にヒシ/\と縛られずとも自由に楽んでパンを得る事が出来るようになった。 斯うなると文人は袋物屋さんや下駄屋さん・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・けれども此の死を讃美し此れを希うという事は既に或る解決であって、最早煩悶の時代を去った、そして宗教に合致したのであって真のもだえというべきは此に達する間の苦しみでなくてはならぬ。 今一つ言うべきは、現実という事である。此れも極めて物質的・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・今の沢村宗十郎氏の門弟で某という男が、或夏の晩他所からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道の通りを急いでやって来て、さて聖天下の今戸橋のところまで来ると、四辺は一面の出水で、最早如何することも出来ない、車屋と思った・・・ 小山内薫 「今戸狐」
俳優というものは、如何いうものか、こういう談を沢山に持っている、これも或俳優が実見した談だ。 今から最早十数年前、その俳優が、地方を巡業して、加賀の金沢市で暫時逗留して、其地で芝居をうっていたことがあった、その時にその・・・ 小山内薫 「因果」
・・・然し最早や苦痛は少しも楽に成りません。病人は「如何したら良いんでしょう」と私に相談です。私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬで・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・それでも感心なことには、画板に向うと最早志村もいまいましい奴など思う心は消えて書く方に全く心を奪られてしまった。 彼は頭を上げては水車を見、また画板に向う、そして折り折りさも愉快らしい微笑を頬に浮べていた。彼が微笑するごとに、自分も我知・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
出典:青空文庫