・・・私も、すこしむっとなり、階段のぼる彼のうしろ姿に、ほかへ持って行くものを、ここへ置かずともいい、僕はトマト、好きじゃないんだ、こんなトマトなどにうつつを抜かしていやがるから、ろくな小説もできない、など有り合せの悪口を二つ三つ浴びせてやったが・・・ 太宰治 「喝采」
・・・「細君がいないので、せっかくおいで下さっても、何のおもてなしも出来ず、ほんの有り合せのものですが、でも、これはちょっと珍らしいものでしてね、おわかりですか、ナマズの蒲焼です。細君の創意工夫の独特の味が付いています。ナマズだって、こうなる・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
・・・ それで私は有り合せの手近な材料から知り得られるだけの事をここに書き並べて、この学者の面影を朧気にでも紹介してみたいと思うのである。主な材料はモスコフスキーの著書に拠る外はなかった。要するに素人画家のスケッチのようなものだと思って読んで・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ドーフキンは爆発の光景を現わすのに本物のダイナマイトの爆発を撮ってみたがいっこうにすごみも何もないので、試みにひどく黒煙を出す炬火やら、マグネシウムの閃光やを取り交ぜ、おまけに爆発とはなんの縁もない、有り合わせの河流の映像を插入してみたら、・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・その二、三日前の夜にその主人が話しに来たとき自分も二十余年前の父の真似をして有り合せのベルモットか何かを飲ませたら、この男もやはりこんな酒は始めてだと云って喜んで飲んだ。多分たった一杯飲んだだけであったが、しかしその馴れない酒を飲んだという・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・荒涼、陰惨、ディスマル、トロストロース、あらゆる有り合わせの形容詞の総ざらえをしても間に合わない光景である。いつもは美しく飾り立てた小売り店の表には、実に見すぼらしい明治時代の雨戸がしめてある。大商店のショウウィンドウにははげさびた鎧戸か、・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・人を見ると低い声でガーガーガーと三声か四声ぐらい鳴く。有り合わせの餌を一片二片とだんだん近くへ投げてやると、おしまいには、もう手に持っているカステイラなどをくちばしで引ったくって頬張る事を覚えてしまった。いくら食わせてもなかなかこの貪食な小・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ 遺骸は有り合わせのうちでいちばんきれいなチョコレートのあき箱を選んでそれに収め、庭の奥の楓の陰に埋めて形ばかりの墓石をのせた。 玉が死んだ時は、自分が病気で弱っていたせいかなんとなく感傷的な心持ちがした。だれにもかわいがられずに生・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・今でもその字を記憶しているから、ここに書いても好いが、サフランと三字に書いてある初の字は、所詮活字には有り合せまい。依って偏旁を分けて説明する。「水」の偏に「自」の字である。次が「夫」の字、又次が「藍」の字である。「お父っさん。サフラン・・・ 森鴎外 「サフラン」
出典:青空文庫