・・・ 小野の小町 (疑あなたもと仰有るのは? あなたこそお会いになったのですか? 玉造の小町 いいえ、わたしは会いません。 小野の小町 わたしの会ったのも唐の使です。 しばらくの間沈黙。黄泉の使、忙しそうに通りかかる。 玉造・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・お婆様が波が荒くなって来るから行かない方がよくはないかと仰有ったのですけれども、こんなにお天気はいいし、風はなしするから大丈夫だといって仰有ることを聞かずに出かけました。 丁度昼少し過ぎで、上天気で、空には雲一つありませんでした。昼間で・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・僕はお母さんが泣くので、泣くのを隠すので、なお八っちゃんが死ぬんではないかと心配になってお母さんの仰有るとおりにしたら、ひょっとして八っちゃんが助かるんではないかと思って、すぐ坐蒲団を取りに行って来た。 お医者さんは、白い鬚の方のではな・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・執念深いところが有るよ。やっぱり君は一生歌を作るだろうな。A どうだか。B 歌も可いね。こないだ友人とこへ行ったら、やっぱり歌を作るとか読むとかいう姉さんがいてね。君の事を話してやったら、「あの歌人はあなたのお友達なんですか」って喫・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ とお縫が尋ねると、勿体ないが汗臭いから焚き占めましょう、と病苦の中に謂ったという、香の名残を留めたのが、すなわちここに在る記念の浴衣。 懐しくも床さに、お縫は死骸の身に絡った殊にそれが肺結核の患者であったのを、心得ある看護婦でありなが・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水の音、ひたすら事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。 少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・無論ドコの貸本屋にも有る珍らしくないものであったが、ただ本の価を倹約するばかりでなく、一つはそれが趣味であったのだ。私の外曾祖父の家にもこの種の写本が本箱に四つ五つあった。その中に馬琴の『美少年録』や『玉石童子訓』や『朝夷巡島記』や『侠客伝・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自己にのみ之を獲んとするのではない、万人の斉く之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・そして作家の努力は即ち神経、感情のエキセントリックな者であって嘗て人間の達しなかった眼に見えなかった感情、人の達しない境に入るところに在ると思うのである。 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・ しかし、空拳と無芸では更に成すべき術もなく、寒山日暮れてなお遠く、徒らに五里霧中に迷い尽した挙句、実姉が大邱に在るを倖い、これを訪ね身の振り方を相談した途端に、姉の亭主に、三百円の無心をされた。姉夫婦も貧乏のどん底だった。「百円は・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫