・・・「私儀柔弱多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心の火をそれへ移し・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 梅水は、以前築地一流の本懐石、江戸前の料理人が庖丁をさびさせない腕を研いて、吸ものの運びにも女中の裙さばきを睨んだ割烹。震災後も引続き、黒塀の奥深く、竹も樹も静まり返って客を受けたが、近代のある世態では、篝火船の白魚より、舶来の塩鰯が・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・「御新姐の似顔ならば本懐です。」―― 十二月半ばである。日短かな暮方に、寒い縁側の戸を引いて――震災後のたてつけのくるいのため、しまりがつかない――竹の心張棒を構おうとして、柱と戸の桟に、かッと極め、極めはずした不思議のはずみに・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 土間はたちまち春になり、花の蕾の一輪を、朧夜にすかすごとく、お町の唇をビイルで撓めて、飲むほどに、蓮池のむかしを訪う身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根が柵の内外、浄土の逆茂木。勿体ないが、五百羅漢の御腕・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、二モ無ク亦三モ無シ」とある。 仏・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ それが人間としての本当の向上というもので、ついには人間をこえたみ仏の位にまで達することができるので、そうなれば女人成仏の本懐をとげるわけである。そしてみ仏になるといっても、この人間のそのままであるところにさとりの極意があるのだ。 ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・応と言われれば、日頃の本懐も忽ち遂げらるる場合にござる。手段は既に十分にととのい、敵将を追落し敵城を乗取ること、嚢の物を探るが如くになり居れど、ただ兵粮其他の支えの足らぬため、勝っても勝を保ち難く、奪っても復奪わるべきを慮り、それ故に老巧の・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 墜落しても男子の本懐、何でもやってみる事だ、という激励のようでもあり、結局、私にも何が何やらわからないのだ。けれども、何が何やらわからぬ事実の中から、ふいと淋しく感ずるそれこそ、まことの教訓のような気もするのである。吹く風をなこその関とい・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・をまとめて命を終られたことは或る意味で本懐であったであろう。けれども平林氏の死にしろ本庄氏の死にしろ、或る発足をした作家たちの今日における若き生涯の閉されかたとして見るとき、生きている私たちに語られて来る声は、かりにどっちを向いて耳をおさえ・・・ 宮本百合子 「作家の死」
出典:青空文庫