・・・あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、傍南画を描く男ですが。」「西郷隆盛ではないのですね。」 本間さんは真面目な声でこう云って、それから急に顔を赤らめた。今まで自分のつとめていた滑稽な役まわりが、この時忽然として新しい光に、照される事・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ 滝田君は本職の文芸の外にも書画や骨董を愛していた。僕は今人の作品の外にも、椿岳や雲坪の出来の善いものを幾つか滝田君に見せて貰った。勿論僕の見なかったものにもまだ逸品は多いであろう。が、僕の見た限りでは滝田コレクションは何と言っても今人・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎氏」
・・・何故かと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るものは一人もいない。従ってまた人物も、顔は役者のごとくのっぺりしてい・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・猟夫といっても、南部の猪や、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの雄ではない。のらくらものの隙稼ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃する。人目を憚るのだから、忍びに忍んで潜入するの・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・殊に江戸文化の爛熟した幕末の富有の町家は大抵文雅風流を衒って下手な発句の一つも捻くり拙い画の一枚も描けば直ぐ得意になって本職を気取るものもあった。その中で左に右く画家として門戸を張るだけの技倆がありながら画名を売るを欲しないで、終に一回の書・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が夫婦になっているのだが、本当は大きな椀に盛って一つだけ持って来るよりも、そうして二杯もって来る方が分量が多く見えるというところをねらった、大阪人の商売上手かも知れないが、明治初年に文楽の三味線引きが本職だけでは生計が立たず、ぜんざい屋を経・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ おかげで、白崎は大学で覚えたことをすっかり忘れてしまうくらい、毎日逆立ちをやらされ、赤井は本職の落語を忘れてしまうくらい、毎日浪花節を唸らされて、いわば隊長の肴になるために、応召したようなものであった。 しかし、彼等は隊長の酒の肴・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・最近、友人が「君は本職をもう捨てたのか」といった。小説は私の副職だというのである。「いや、今に戯曲も書くよ」と答えたが、その実、素人劇の脚本を昨年頼まれて書き演出もした。満更でもないと思った。いろいろ楽みで、なかなか死ねないと思う。・・・ 織田作之助 「わが文学修業」
・・・は舟の艫の方へ出まして、そうして大きな長い板子や楫なんぞを舟の小縁から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらしにヤタ一の客よりわるいかっこうをして釣るのでありまするから、もう遊びではありません。本職の漁師みたいな姿になってしまって、ま・・・ 幸田露伴 「幻談」
本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、常に詩材の準備をして置くのである。「秋について」という注文が来れば、よし来た、と「ア」の部の引き出しを開いて、愛、青、赤、アキ、いろいろのノオトがあって、そ・・・ 太宰治 「ア、秋」
出典:青空文庫