・・・顔は一見ゴリラに似た、東北生れの野蛮人なのです。しかし目だけは天才らしい閃きを持っているのですよ。彼の目は一塊の炭火のように不断の熱を孕んでいる。――そう云う目をしているのですよ。 主筆 天才はきっと受けましょう。 保吉 しかし妙子・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・と、強い東北訛の声をかけた。「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」 谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ そのとき、汽車は、野原や、また丘の下や、村はずれや、そして、大きな河にかかっている鉄橋の上などを渡って、ずんずんと東北の方に向かって走っていたのでした。 その日の晩方、あるさびしい、小さな駅に汽車が着くと、飴チョコは、そこで降ろさ・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・ そこで彼は失敗やら成功やら、二十年の間に東京を中心としておもに東北地方を舞台に色んな事をやって見たが、ついに失敗に終わったと言うよりもむしろ、もはや精根の泉を涸らしてしまった。 そして故郷へ帰って来た。漂って来たのではない、実に帰・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口の旅宿で初めてあった秋山との交際は全く絶えた。ちょうど、大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・に上りきれば、そこが甲州武州の境で、それから東北へと走っている嶺を伝わって下って行けば、ついには一つの流に会う、その流に沿うて行けば大滝村、それまでは六里余り無人の地だが、それからは盲目でも行かれる楽な道だそうだ、何でも峠さえ越してしまえば・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・春から秋へかけては総ての漁猟の季節であるから、猶更左様いう東京からは東北の地方のものが来て働いて居る。 又其の上に海の方――羽田あたりからも隅田川へ入り込んで来て、鰻を捕って居るやつもある。羽田などの漁夫が東京の川へ来て居るというと、一・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・ 私たちが住み慣れた家の二階は東北が廊下になっている。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣と板塀とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行った。遠い郷里のほうの木曽川の音や少年時代の友だちのことなぞを思い・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・東京から地方へのがれ出るには、関西方面行の汽車は箱根のトンネルがこわれてつうじないので、東京湾から船で清水港へわたり、そこから汽車に乗るのです。東北その他へ出る汽車には、みんながおしおしにつめかけて、機関車のぐるりや、箱車の屋根の上へまでぎ・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
出典:青空文庫