・・・母家から別れたその小さな低い鱗葺の屋根といい、竹格子の窓といい、入口の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢、柄杓、その傍には極って葉蘭や石蕗などを下草にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後にして立っている有様、春の朝には鶯がこの手水鉢・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・名利を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・敵娼はいずれもその傍に附き添い、水を杓んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。 客の羽織の襟が折れぬのを理しながら善吉を見返ッたのは、善吉の連初会で二三度一座したことのある初緑という花魁である。「おや、善さん。昨夜も・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・農民三「はぁでな、お前さま、おれさ叮ねいに柄杓でかげろて言っただなぃすか。」爾薩待「いやいや、それはね、……」農民二「なあに、この人、まるでさっきたがら、いいこりゃ加減だもさ。」農民一「あんまり出来さなぃよだね。」・・・ 宮沢賢治 「植物医師」
・・・湯槽を仕切る板壁に沢山柄杓がかかっていた。井とか、中村、S・Sなどと柄杓の底に墨で書いてある。 そこを過ぎると、人家のない全くの荒地であった。右にも左にも丘陵の迫った真中が一面焼石、焼砂だ。一条細い道が跫跡にかためられて、その間を、彼方・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。 一時立つ。二時立つ。もう午を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いなが・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 奴頭は二人の子供を新参小屋に連れて往って、安寿には桶と杓、厨子王には籠と鎌を渡した。どちらにも午餉を入れるかれいけが添えてある。新参小屋はほかの奴婢の居所とは別になっているのである。 奴頭が出て行くころには、もうあたりが暗くなった・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・すぐに跡から小形の手桶に柄杓を投げ入れたのを持って出た。手桶からは湯気が立っている。先っきの若い男が「や、閼伽桶」と叫んだ。所謂閼伽桶の中には、番茶が麻の嚢に入れて漬けてあったのである。 この時玄関で見掛けた、世話人らしい男の一人が、座・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・と秋三は叫ぶと、奥庭から柄杓を持って走って来た。「うちへ置いといてやってもええわして。」とお留は云った。「あかん。」「そんなこと云うてたら、仕方あらへんやないか。」「あかん、あかん。」「おかしい子やな。あんな死にかけてる・・・ 横光利一 「南北」
・・・名利を思うて煩悶絶え間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持ちがして、一種の涼味を感ずるとともに、心の奥より秋の日のような清く温かき光が照らして、すべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた」という個所のあるのに対して、特別・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫