・・・と同時に不思議な香の匂が、町の敷石にも滲みる程、どこからか静に漂って来ました。 四 その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を拡げながら、頻に呪文を唱えていました。書物は香炉の火の光に、・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼女はあの賑やかな家や朋輩たちの顔を思い出すと、遠い他国へ流れて来た彼女自身の便りなさが、一層心に沁みるような気がした。それからまた以前よりも、ますます肥って来た牧野の体が、不意に妙な憎悪の念を燃え立たせる事も時々あった。 牧野は始終愉・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・固より聞こうとしたほどでもなしに、何となく夕暮の静かな水の音が身に染みる。 岩端や、ここにも一人、と、納涼台に掛けたように、其処に居て、さして来る汐を視めて少時経った。 下 水の面とすれすれに、むらむらと動く・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。 ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。・・・ 泉鏡花 「海異記」
雨を含んだ風がさっと吹いて、磯の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累った空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁みるほどに薄寒い。…… 木の葉をこぼれる雫も冷い。……糠雨がまだ降って・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・の趣があって、健なる神の、草鞋を飾る花たばと見ゆるまで、日に輝きつつも、何となく旅情を催させて、故郷なれば可懐しさも身に沁みる。 峰の松風が遠く静に聞えた。 庫裡に音信れて、お墓経をと頼むと、気軽に取次がれた住職が、納所とも小僧とも・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・晩飯の烏賊と蝦は結構だったし、赤蜻蛉に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布の綿の厚いのがごつごつ重くって、肩がぞくぞくする。枕許へ熱燗を貰って、硝子盃酒の勢で、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・誠や温泉の美くしさ、肌、骨までも透通り、そよそよと風が身に染みる、小宮山は広袖を借りて手足を伸ばし、打縦いでお茶菓子の越の雪、否、広袖だの、秋風だの、越の雪だのと、お愛想までが薄ら寒い谷川の音ももの寂しい。 湯上りで、眠気は差したり、道・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・か――と皆でわあわあ、さも初路さんが、そんな姿絵を、紅い毛、碧い目にまで、露呈に見せて、お宝を儲けたように、唱い立てられて見た日には、内気な、優しい、上品な、着ものの上から触られても、毒蛇の牙形が膚に沁みる……雪に咲いた、白玉椿のお人柄、耳・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・『働かざるものは食うべからず』『彼等麺麭を得る能わざるに、菓子を食うは罪悪なり』これ等の語は、ソヴィエットの標語の如く知られているが、よく、其心持は分るというばかりでなく、身に染みるような気がします。 が、なぜであるか。あまりに人間・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
出典:青空文庫