・・・ 明治三十八乙巳年十月吉日鏡花、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛がまたはらはら。「寒くなった、私、もう寝るわ。」「御寝なります、へい、唯今女中を寄越しまして、お枕頭もまた、」「いいえ、煙草は飲まない、お火な・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・麦やや青く、桑の芽の萌黄に萌えつつも、北国の事なれば、薄靄ある空に桃の影の紅染み、晴れたる水に李の色蒼く澄みて、午の時、月の影も添う、御堂のあたり凡ならず、畑打つものの、近く二人、遠く一人、小山の裾に数うるばかり稀なりしも、浮世に遠き思あり・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・当時の僕はそこまでは考えなかったけれど、親しく目に染みた民子のいたいたしい姿は幾年経っても昨日の事のように眼に浮んでいるのである。 余所から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面と見苦しくもあったであろうけれど、二人の身に取・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・つまるところ省作の頭には、おとよの事が深く深く染みこんでいるから、わけもなく深田に気乗りがしない。それにこの頃おとよと隣との関係も話のきまりが着いて、いよいよおとよも他に関係のない人となってみると、省作はなにもかにもばからしくなって、俄かに・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・未練がないだけ、僕は今かえって仕合せだと思ったが、また、別なところで、かれらの知らないうちにああいう社会にはいって、ああいう悪風に染み、ああいう楽しみもして、ああいう耽溺のにおいも嗅いで見たいような気がした。僕は掃き溜めをあさる痩せ犬のよう・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・斜子の羽織の胴裏が絵甲斐機じゃア郡役所の書記か小学校の先生染みていて、待合入りをする旦那の估券に触る。思切って緞子か繻珍に換え給え、」(その頃羽二重はマダ流行というと、「緞子か繻珍?――そりゃア華族様の事ッた、」と頗る不平な顔をして取合わな・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・尤も日本の政治家に漢詩以外の文学の造詣あるものは殆んどなかったが、その頃政治家が頻りと小説を作る流行があって、学堂もまた『新日本』という小説染みたものを著わした。余り評判にもならなかったが、那翁三世が幕府の遣使栗本に兵力を貸そうと提議した顛・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・枕は脂染みた木枕で、気味も悪く頭も痛い。私は持合せの手拭を巻いて支った。布団は垢で湿々して、何ともいえない臭がする。が、それはまだ我慢もできるとして、どうにもこうにも我慢のできないのは、少し寝床の中が暖まるとともに、蚤だか虱だか、ザワザワザ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「ははは、何だか馬鹿に年寄り染みたことを言うじゃねえか。お光さんなんざまだ女の盛りなんだもの、本当の面白いことはこれからさ」「いいえ、もうこんな年になっちゃだめだよ。そりゃ男はね、三十が四十でも気の持ちよう一つで、いつまでも若くてい・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・二 早くから両親を失い家をなくしてしまった私は、親戚の家を居候して歩いたり下宿やアパートを転々と変えたりして来たためか、天涯孤独の身が放浪に馴染み易く、毎夜の大阪の盛り場歩きもふと放浪者じみていたので、自然心斎橋筋や道頓堀界・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫