・・・するといつか白ズボンの先には太い栗毛の馬の脚が二本、ちゃんともう蹄を並べている。―― 半三郎はここまで覚えている。少くともその先はここまでのようにはっきりと記憶には残っていない。何だか二人の支那人と喧嘩したようにも覚えている。また嶮しい・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・するとある農家の前に栗毛の馬が一匹繋いである。それを見た半之丞は後で断れば好いとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨って遮二無二街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ 弘安五年九月、秋風立ち初むるころ、日蓮は波木井氏から贈られた栗毛の馬に乗って、九年間住みなれた身延を立ち出で、甲州路を経て、同じく十八日に武蔵国池上の右衛門太夫宗仲の館へ着いた。驢馬に乗ったキリストを私たちは連想する。日蓮はこの栗毛の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そして、静かに、そこらにある車や、木切れなどを蹴散らさないように用心しいしい歩んだ。栗毛の肉のしまった若々しい馬は全速力で馳せのがれて来たため、かなり疲れて、呼吸がはずんでいた。 裏通りの四五軒目の、玄関とも、露台ともつかないような入口・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・十丁にして尽きた柳の木立を風の如くに駈け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼の鎧に満身の日光を浴びて、同じ兜の鉢金よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみさんさんと靡かしている。栗毛の駒の逞しきを、頭も胸も革に裹みて飾れる鋲の数は篩い落せし秋の夜・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・これより両家の間は長く中絶えて、ウィリアムの乗り馴れた栗毛の馬は少しく肥えた様に見えた。 近頃は戦さの噂さえ頻りである。睚眦の恨は人を欺く笑の衣に包めども、解け難き胸の乱れは空吹く風の音にもざわつく。夜となく日となく磨きに磨く刃の冴は、・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・精女、ためらいながら左の手につぼをもちかえてまっしろな右の手を栗毛の若い精霊の髪の上に置く。若い精霊は涙をこぼして居る。第一の精霊 キッスをして御やりなされ額の上に――精女私はお主さまに朝と夕に御手にするほかいやでご・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・このエハガキのむこうから黄色い外套を着ぶくれた御者にあやつられて栗毛の馬二頭にひかれた乗合馬車が来る。広場の中央に一本ガス燈の立っている周囲を、四本の標で区切ったいとささやかな安全地帯があって、包をもった子供がそこへかけつけている。・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・その大将め、はるか対方に栗毛の逸物に騎ッてひかえてあったが、おれの働きを心にくく思いつろう、『あの武士、打ち取れ』と金切声立てておッた」「はははは、さぞ御感に入りなされたろう、軍が終ッて。身に疵をば負いなされたか」「四カ所負いたがい・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように没落へと溢れていった。 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫