・・・予の手足と予の体躯は、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。 一間の燈りが動く。上り端の障子が赤くなる。同時に其障子が開いて、洋燈を片手にして岡村の顔があらわれた。「やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思ってい・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋造りの格子戸に博文館の看板が掛っていたのを記憶している。小生は朝に晩に其家の前を何度も通行した。此の小さな格子戸の中で日本の出版界の革命が計劃されていたとは誰しも想像・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・中仕切の格子戸はあけたまま、さらにお光に談しかけるのであった。「お上さん、親方はどんなあんばいですね?」「どうもね、快くないんで困ってしまうわ」「ああどうも長引いちゃ、お上さんもお寂しいでしょう?」「寂しいって?」お光は合点・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・とだから、そこはその儘冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町から、二人肩と肩と擦れ寄りながら、自分の家の前まで来て内へ入ろうと思った途端、其処に誰も居ないものが、スーウと格子戸が開いた時は、彼も流石に慄然とした・・・ 小山内薫 「因果」
・・・すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いてた障子の間から、ぬうっと顔を突出した。「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。「否もうこゝで結構です・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・二階建、格子戸、見たところは小官吏の住宅らしく。女姓名だけに金貸でも為そうに見える。一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜った。 五月十三日 勝手の間に通ってみると、母は長火鉢の向うに坐・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・頑丈な格子戸がそこについていた。主人は細かくて、やかましかった。醤油袋一枚、縄切れ五六尺でさえ、労働者が塵の中へ掃き込んだり、焼いたりしていると叱りつけた。そういう性質からして、工場へ一歩足を踏みこむと、棒切れ一ツにでも眼を見はっていた。細・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ 格子戸は一つ格子戸である。しかし明ける音は人々で異る。夫の明けた音は細君の耳には必ず夫の明けた音と聞えて、百に一つも間違うことは無い。それが今日は、夫の明けた音とは聞えず、ハテ誰が来たかというように聞えた。今その格子戸を明けるにつけて・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 休茶屋の近くに古い格子戸のはまった御堂もあった。京橋の誰それ、烏森の何の某、という風に、参詣した連中の残した御札がその御堂の周囲にべたべたと貼りつけてある。高い柱の上にも、正面の壁の上にも、それがある。思わずお三輪は旧い馴染の東京をそ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・毘沙門かなんかの縁日にはI商店の格子戸の前に夜店が並んだ。帳場で番頭や手代や、それからむすこのSちゃんといっしょに寄り集まっていろいろの遊戯や話をした。年の若い店員の間には文学熱が盛んで当時ほとんど唯一であったかと思われる青年文学雑誌「文庫・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
出典:青空文庫