・・・そこには四五本の棕櫚の中に、枝を垂らした糸桜が一本、夢のように花を煙らせていた。「御主守らせ給え!」 オルガンティノは一瞬間、降魔の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・「僕はあの棕櫚の木を見る度に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上の葉っぱが動いているだろう。――」 棕櫚の木はつい硝子窓の外に木末の葉を吹かせていた。その葉はまた全体も揺らぎながら、細かに裂けた葉の先々をほとんど神経的に震わせて・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・芝生のはずれには棕櫚の木のかげに、クリイム色に塗った犬小屋があります。白は犬小屋の前へ来ると、小さい主人たちを振り返りました。「お嬢さん! 坊ちゃん! わたしはあの白なのですよ。いくらまっ黒になっていても、やっぱりあの白なのですよ。」・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・それはまた木蔦のからみついたコッテエジ風の西洋館と――殊に硝子窓の前に植えた棕櫚や芭蕉の幾株かと調和しているのに違いなかった。 しかしT君は腰をかがめ、芝の上の土を拾いながら、もう一度僕の言葉に反対した。「これは壁土の落ちたのじゃな・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・千二百十二年の三月十八日、救世主のエルサレム入城を記念する棕櫚の安息日の朝の事。 数多い見知り越しの男たちの中で如何いう訳か三人だけがつぎつぎにクララの夢に現れた。その一人はやはりアッシジの貴族で、クララの家からは西北に当る、ヴィヤ・サ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ トその壁の上を窓から覗いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺って、団扇の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚の樹が、その夜は妙に寂として気勢も聞えぬ。 鼠も寂莫と音を潜めた。…… 八 台所と、この上框とを・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 横手の土塀際の、あの棕櫚の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背を撫でなぞしてな。 そこで言聞かされたと云うんだ。(今に火事がありますから、早く家へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますか・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 満蔵は庭を掃いてる様子、姉は棕梠箒で座敷を隅から隅まで、サッサッ音をさせて掃いている。姉は実に働きものだ。姉は何をしたってせかせかだ。座敷を歩くたって品ぶってなど歩いてはいない。どしどし足踏みして歩く。起こされないたって寝ていられるも・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・樫、梅、橙などの庭木の門の上に黒い影を落としていて、門の内には棕櫚の二、三本、その扇めいた太い葉が風にあおられながらぴかぴかと輝っている。 豊吉はうなずいて門札を見ると、板の色も文字の墨も同じように古びて「片山四郎」と書いてある。これは・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ただ一つの屋根窓だけが開いていて、二つの棕櫚の葉の間から白い手が見えて、小さなハンケチを別れをおしんでふるかのようにふっていました。 おかあさんはまた入り口の階段を上ってみますと、はえしげった草の中に桃金嬢と白薔薇との花輪が置いてありま・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
出典:青空文庫