・・・ 極楽水はいやに陰気なところである。近頃は両側へ長家が建ったので昔ほど淋しくはないが、その長家が左右共闃然として空家のように見えるのは余り気持のいいものではない。貧民に活動はつき物である。働いておらぬ貧民は、貧民たる本性を遺失して生きた・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 人々は、眼を上げて、世界の出来事を見ると、地獄と極楽との絵を重ねて見るような、混沌さを覚えた。が、眼を、自分の生活に向けると、何しろ暑くて、生活が苦しくて、やり切れなかった。 その、四十年目の暑さに、地球がうだって、鮒共が総て目を・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・その目的は死後に極楽に往生していわゆる「パラダイス」の幸福を享けんとの趣意ならん。深謀遠慮というべし。されども不良の子に窘しめらるるの苦痛は、地獄の呵嘖よりも苦しくして、然も生前現在の身を以てこの呵嘖に当たらざるを得ず。余輩敢えて人の信心を・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・否な、夫の心次第にて、極楽もあり地獄もあり、苦楽喜憂恰も男子手中の玩弄物と言うも可なり。斯くまでに不安心なる女子の身の上に就き、父母たる者が其行末を案じて為めに安身立命の法を講ずるは親子天然の至情ならずや。即ち女子の為めに文明教育の大切なる・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしするもおつだが、しかし方角が分らないテ。めったに闇の中を歩行いて血の池なんかに落ちようものなら百年目だ、こんな事なら円遊に細しく聞いて来るのだッた。オヤ梟が鳴く。何でも気味の善い鳥とは思わなかったが・・・ 正岡子規 「墓」
・・・殊に既往一ヶ月余り、地べたの上へ黍稈を敷いて寐たり、石の上、板の上へ毛布一枚で寐たりという境涯であった者が、俄に、蒲団や藁蒲団の二、三枚も重ねた寐台の上に寐た時は、まるで極楽へ来たような心持で、これなら死んでも善いと思うた。しかし入院後一日・・・ 正岡子規 「病」
・・・「今度会うのは何処だやら――地獄か、極楽かね」「私しゃ、どうで地獄さ――生きて地獄、死んでも地獄」 万更出まかせと思えないような調子であった。「…………」 七十と七十六になった老婆は、暫く黙って、秋日に照る松叢を見ていた・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・「極楽の鬼」 第一の感じ。随分賑やかなのに、何故がらんとして立体的でないのだろう。地下室の酒場らしい濃厚な陰翳がなさすぎる。周囲の高い壁がさっぱりしすぎている。声と姿ばかり。真実に心から溶けた雰囲気がない。 あれ程大勢の男や女を・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・この取調べの末に、いつでも一人や二人は極楽へさえやって貰うのである。 この緑色の車に、外の人達と一しょにツァウォツキイも載せられた。小刀を胸に衝き挿したままで載せられた。馬車はがたぴしと夜道を行く。遠く遠く夜道を行く。そのうちに彼誰時が・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・あれなら八分板や、あんなもんでして貰うたら、それこそ極楽へ行きよるに定ってる。やっぱり伯母やんやなけりゃ、ええ考えが出て来んわ。」「なア、あれはほんとに好かろが、三つ位で出来るやろ。」「二つでええとも。あれでして貰うたら、安次もなか・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫