・・・わたしが帝国劇場の楽屋に出入したのはこの時が始めてである。座附女優諸嬢の妖艶なる湯上り姿を見るの機を得たのもこの時を以て始めとする。但し帝国劇場はこの時既に興行十年の星霜を経ていた。 わたしはこの劇場のなおいまだ竣成せられなかった時、恐・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・(徐譬えば下手な俳優があるきっかけで舞台に出て受持だけの白を饒舌り、周匝の役者に構わずに己が声を己が聞いて何にも胸に感ぜずに楽屋に帰ってしまうように、己はこの世に生れて来て何の力もなく、何の価値もなく、このままこの世を去らねばならぬか。何で・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲の練習をしていました。 トランペットは一生けん命歌っています。 ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。 クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・ 斬った方は肩を怒らせて、三べん刀を高くふり廻し、紫色の烈しい火花を揚げて、楽屋へはいって行きました。 すると倒れた方のまっ二つになったからだがバタッと又一つになって、見る見る傷口がすっかりくっつき、ゲラゲラゲラッと笑って起きあがり・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・ 見世物小屋の楽屋で、林之助の噂をする時、菓子売の勘蔵に林之助の情事を白状させようと迫る辺、まして、舞台で倒れた後に偶然来た林之助を捉えて、燃えるような口惜しさ、愛着を掻口説く時、お絹は、確に、もう少し余情を持つべきであった。意志の不明・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・コティをうしろだてにしていた彼女がムーランの舞台や楽屋でふれた人々は、彼女の黒い皮膚を美しいとほめこそすれ、その肌の色のために彼女に出入り出来なくさせた宴会場はなかったろう。 アメリカへ戻れば、アメリカには黒人が一つの社会問題として存在・・・ 宮本百合子 「今日の生活と文化の問題」
・・・ハダカ電燈のつり下ったせまい台の上に立て鏡だの大きなはけの見える化粧箱がおかれていて一寸見には楽屋かと思える場所で、若い娘が手紙をかいている画である。リボンで髪をむすんだ娘が手紙をかいている横に女クツの片方がころがっている。そして左手に、そ・・・ 宮本百合子 「さしえ」
・・・と云うような事を言っている。楽屋の方の世話も焼いている人達であろう。二人は僕の立っているのには構わずに、奥へ這入ってしまう。入り替って、一人の男が覗いて見て、黙って又引っ込んでしまう。 僕はどうしようかと思って、暫く立ち竦んでいたが、右・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・北は荒川から南は玉川まで、嘘もない一面の青舞台で、草の楽屋に虫の下方,尾花の招引につれられて寄り来る客は狐か、鹿か、または兎か、野馬ばかり。このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、このころ軍があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情な・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ある時西洋人が文楽の舞台で狐を見て非常に感心し、それを見せてもらいに楽屋へ来た。人形使いはあそこに掛かっていますと言って柱にぶら下げた狐をさした。それは胴体が中のうつろな袋なので、柱にかかっている所を見れば子供の玩具にしか見えない。西洋人は・・・ 和辻哲郎 「文楽座の人形芝居」
出典:青空文庫