・・・日の光が斜めに窓からさし込むので、それを真面に受けた大尉の垢じみた横顔には剃らない無性髯が一本々々針のように光っている。女学生のでこでこした庇髪が赤ちゃけて、油についた塵が二目と見られぬほどきたならしい。一同黙っていずれも唇を半開きにしたま・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・聴きおわりたる横顔をまた真向に反えして石段の下を鋭どき眼にて窺う。濃やかに斑を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇が暗きを洩れて和かき香りを放つ。君見よと宵に贈れる花輪のいつ摧けたる名残か。しばらくはわが足に纏わる絹の音にさえ心置ける・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・着物を脱いで、流しへ這入ろうとして、ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である。余は長谷川さんと声をかけた。それまではまるで気がつかなかった君は、顔を上げて、やあと云った。湯の中ではそれぎりしか口を利かなかった。何でも暑・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・最後に為山君が日本画の丸い波は海の波でないという事を説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけにこの実地論を聞いて半ば驚き半ば感心した。殊に日本画の横顔には正面から見たよ・・・ 正岡子規 「画」
・・・いかにもうるさいと思うてその顔を心で打ち消して見ると、襖の下の隅にある水か何かのしみがまた横顔の輪廓を成して居る。仕方がないから試に左向きに寐て見るとガラスごしに上野の杉の森が見えてその森の隙間に向うの空が透いて見える。その隙間の空が人の顔・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・童子は母さまの魚を砕く間、じっとその横顔を見ていられましたが、俄かに胸が変な工合に迫ってきて気の毒なような悲しいような何とも堪らなくなりました。くるっと立って鉄砲玉のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一杯に充ちた空に向って、大・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・――膝に開いた本をのせたまま手許に気をとられるので少し唇をあけ加減にとう見こう見刺繍など熱心にしている従妹の横顔を眺めていると、陽子はいろいろ感慨に耽る気持になることがった。夫の純夫の許から離れ、そうして表面自由に暮している陽子が、決して本・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ぴったりと吸いよせられて、その肩のあたりや横顔をぼんやり浮上らせている列にそって顔から顔へ視線が行くと、これらの心がどんな気持で観ているであろうと、梅雨のいきれがひとしお身近に感じられた。若くて寡婦になったひと、その良人の肖像は幼い娘や息子・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのように、端整な青い線をその横顔の上に浮べていた。 二 彼と妻との間には最早悲しみの時機は過ぎていた。彼は今まで医者から妻の死の宣告を幾度聞かされたか分・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・湯のなかにはもう一人の女が、肩まで浸って、両手を膝の方へ伸ばして、湯のなかをでもながめ入っているらしい横顔を見せている。湯槽の向こうには肌ざわりのよさそうな檜の流し場が淡い色で描いてあり、正面の壁も同じように湯気に白けた檜の色が塗られている・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫