・・・さて自然の事実をそのままに申せば、たといいかな忠臣でも孝子でも貞女でも、一方から云えばそれぞれ相当の美徳を具えているのは無論であるがこれと同時に一方ではずいぶんいかがわしい欠点をもっている。すなわち忠であり孝であり貞であると共に、不忠でもあ・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・あの小さな狡猾さうな眼をした、梟のやうな哲学者ショーペンハウエルは、彼の暗い洞窟の中から人生を隙見して、無限の退屈な欠伸をしながら、厭がらせの皮肉ばかりを言ひ続けた。一方であの荒鷲のやうなニイチェは、もつと勇敢に正面から突撃して行き、彼の師・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ と彼は力なく欠伸をした。そして悲しく、投げ出すように呟いた。「そんな昔のことなんか、どうだって好いや!」 それからまた眠りに落ち、公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまった。丁度昔、彼が玄武門で戦争したり、夢の中で賭博をし・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 三ツばかり先の名代部屋で唾壺の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸をした。 途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外沈着いていた。 平田は驚くほど蒼白た・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 中津の旧藩にて、上下の士族が互に婚姻の好を通ぜざりしは、藩士社会の一大欠典にして、その弊害はほとんど人心の底に根拠して動かすべからざるもののごとし。今日に至ては稀に上下相婚する者もなきに非ざれども、今後ますますこの路を開くべきの勢を見・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・ゆえに少年の学生に徳を教うる教科書は、たんに私徳の要を説き、まず良家の良子女たらしめ、然る後に社会公徳の教に移るべきはずなるに、本書の立言、あるいはその要を欠くものの如し。 今かりに一歩を譲り、倫理教科書中、私徳のことに説き及ぼさざるに・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・ぎごちなくなった指を伸ばして、出そうになった欠を噛み潰した。そしてやおらその手を銀盤の方へ差し伸べた。盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。 ピエエルは郵便を選り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙わしく選り出し・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いているか或いは欠伸でもしているかのように見えましたが近くではもちろん笑っている息の音も聞えましたし唇がピクピク動いているのもわかりましたから子供らはやっぱりそれもばかにして笑いました。 ・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・と北へ行かないじゃいまいよ」「ふーん」 暫くまた二人の話をきいていたが、一太は行儀よくしていることに馴れないから、籠に入れられた犬のように節々がみしみしして来た。一太は「アアー」と欠伸をしながら延びをした。「何ですね一ちゃんは!・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・宮沢が欠をする。下女が欠を噬み殺す。そういう風で大分の間過ぎたのだそうだ。そのうちある晩風雪になって、雨戸の外では風の音がひゅうひゅうとして、庭に植えてある竹がおりおり箒で掃くように戸を摩る。十時頃に下女が茶を入れて持って来て、どうもひどい・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫