・・・その山椒魚は、その後どうなったか、私も実は、それほどの大きい山椒魚を一匹欲しいものだと思っているのでありますが、どうも、いれものを持って来たか、と言われると窮します。バケツぐらいでは間に合いません。けれども、私は、いつの日か、一丈ほどの山椒・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ただ何かしら絶えず刺戟が欲しい。快楽とか苦痛とか名の付くようなものでなく、何んだか分らぬ目的物を遠い霞の奥に望んで、それをつかまえよう/\としていた。小説を読んだり白馬会を見に行ったりまた音楽会を聞きに行ったりしているうちには求めている物に・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・そうして何か欲しいといっては長い舌を出してぺろりぺろりと自分の鼻を甞めた。太十が庭へおりると唯悦んで飛びついた。うっかり抱いて太十はよく其舌で甞められた。赤は太十をなくして畢ってぽさぽさと独りで帰ることがある。春といっても横にひろがった薺が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・すると女の方では大変怒ってとうとう男の所在を捜し当てて怒鳴り込みましたので男は手切金を出して手を切る談判を始めると、女はその金を床の上に叩きつけて、こんなものが欲しいので来たのではない、もし本当にあなたが私を捨てる気ならば私は死んでしまう、・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・君の今一番して欲しいことは何だい」と私は訊いた。「私の頼みたいことわね。このままそうっとしといて呉れることだけよ。その他のことは何にも欲しくはないの」 悲劇の主人公は、私の予想を裏切った。 私はたとえば、彼女が三人のごろつきの手・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・冗い様だが金が欲しい。併し金を取るとすれば例の不徳をやらなければならん。やった所で、どうせ足りッこは無い。 ジレンマ! ジレンマ! こいつでまた幾ら苦められたか知れん。これが人生観についての苦悶を呼起した大動機になってるんだ。即ちこんな・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ 親が子供を躾けるとき、先ず願うことは、体が丈夫であることの次に、正直な、公明正大な人間になって欲しいということであると思います。 子供たちが、正直な、公明正大な人間となってゆくために、果して現在の社会の有様は、ふさわしいもので・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・お前のは売らなくてはならんと云うのでもなし、学位が欲しいと云うのでもないからな。」一旦こうは云ったが、子爵は更に、「学位は貰っても悪くはないが」と言い足して笑った。 ここまで傍聴していた奥さんが、待ち兼ねたように、いろいろな話をし掛ける・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・「何ぞ欲しいものはないか?」とお霜は安次に訊いた。「結構や。」「お前この間、銭持ってたの、どうしたぞ。それだけ欲しいもんでも買う方が好かろが?」「火ん中へ燻べて了うた。」「燻べた!」「邪魔になって仕様がない。」「・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫