・・・こうして芝居を見ながら泣くということは、それほどに望ましい本能的生理的欲求であるらしい。 人間はなぜ泣くか、泣くとは何を意味するか。「悲しいから泣く」という普通の解釈はまるでうそではないまでも決してほんとうではないようである。「泣く・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・考えてみるとはなはだ不可思議な心理ではあるが、畢竟は人間がその所信に対する確証を求めようとするまじめな欲求にほかならないかもしれない。 それはどうでもいいが、この場合迷惑至極なのは象である。腹が立っても、どうする事もできないところへ、こ・・・ 寺田寅彦 「解かれた象」
・・・すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる、という一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて、その禁制にそむき逆らうことの不利をよ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・自然の不可思議な機構を捜る喜びと、本能の欲求する睡眠を抑制するつらさとが渾然と融和した形になって当時の記憶を彩っているようである。 その頃の熱海行きは、国府津まで汽車で行って国府津から小田原まで電車、小田原からは人車鉄道という珍しい交通・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・しかし科学者には没交渉であるはずの物の本性に立ち入ろうとする人間自然の欲求は更に電子は何かという疑問を発して止まぬのである。 前世紀において電気は何物ぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。電気窃取罪の鑑定人として物理学者が法廷に立・・・ 寺田寅彦 「物質とエネルギー」
・・・それを見ても通例女の虚栄心というものは、人間のあらゆる本質的欲求の団塊の、ほんの表面の薄膜に生ずる黴ぐらいのもののように取り扱われているようであるが、はたしてそんなものだろうか。このような婦人が、美服に対した時に、あらゆる理知の束縛を忘れ、・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・自分の仕えている主人と現在の職業のほかに、自分の境地を拓いてゆくべき欲求も苦悶もなさすぎるようにさえ感ぜられた。兄の話では、今の仕事が大望のある青年としてはそう有望のものではけっしてないのだとのことであった。で、私がこのごろ二十五六年ぶりで・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・従ってカーライルの英雄崇拝的傾向の欲求が永久に存在する事は前述の通りであるが今はこれに多少の変化を来たしたという訳であります。 さてかく自然主義の道徳文学のために、自己改良の念が浅く向上渇仰の動機が薄くなるということは必ずあるに相違ない・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・元々開化が甲の波から乙の波へ移るのはすでに甲は飽いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新らしい一波を開展するので甲の波の好所も悪所も酸いも甘いも甞め尽した上にようやく一生面を開いたと云って宜しい。したがって従来経験し尽した甲の波には・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・言論が客観的な真理に立つ可能とその必然をますと共に、人民の生活意識が、人間らしい欲求の自覚とその行動に進むにつれ、新聞はおのずから一転換を誘われて、再び、金儲け事業としてではない新聞の内容と組織とになろうとしている。様々の形で、そういう動き・・・ 宮本百合子 「明日への新聞」
出典:青空文庫