・・・きっぱりと言い放って老先生の眼睛を正視した。「もし乃公が与らぬと言ったらどうする?」「致し方が御座いません!」「帰れ! 招喚にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返して反対を向いて了った。 細川は直ちに起って室を出る・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・幸福クラブ、誕生の第一の夕、しかし最初の話手が陰惨酷烈、とうてい正視できぬある種の生活断面を、ちらとでもお目にかけたとあっては、重大の問題、ゆゆしき責任を感じます。ありがたいことには、神様、今いちどだけ、私をおゆるし下さいました。たそがれ、・・・ 太宰治 「喝采」
・・・まことは、小心翼々の、甘い弱い、そうして多少、頭の鈍い、酒でも飲まなければ、ろくろく人の顔も正視できない、謂わば、おどおどした劣った子である。こいつが、アレキサンダア・デュマの大ロマンスを読んで熱狂し、血相かえて書斎から飛び出し、友を選ばば・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・後者等は大体において人間心理を伝統的理想の鋳型に嵌めて活動させているとしか思われないのに反して、西鶴だけは自分自身の肉眼で正視し洞察し獲得した実証的素材を赤裸々に記録している傾向がある。 西鶴の人間に関する観察帰納演繹の手法を例示するも・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ ベランダから池の向こうの踊り場を正視していたときに、正面から左方約四十五度の方向で仰角約四十度ぐらいの高さの所を一つの火の玉が水平に飛行したというのである。その水平経路の視角はせいぜい二三十度でその角速度は、どうもはっきりはしないが、・・・ 寺田寅彦 「人魂の一つの場合」
・・・彼は簡単に、早いじゃありませんか、今朝起きたらすぐ上がるつもりでいたところをお迎えで――と言ったまま、そこへすわって、自分の顔を正視した。この時はたから二人の様子を虚心に観察したら、重吉のほうが自分よりはるかに無邪気に見えたに違いない。自分・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ バルザックは嘘偽も人世のリアリティーの一つであることを正視する勇気をもっていた。 ゴンクールが自然主義作家であったが、大なるリアリスト作家でなかった所以。 そして、フランスの知識人は、彼等の人生に正当なおき場所で政治をうけとり・・・ 宮本百合子 「折たく柴」
・・・胸に抱けば 暖かろう蓋をすかし そっと覗けば 眼も耀こう愉しい 我心の歓びが還り愛が とけ恐ろしい横眼が真直な 正視に 微笑もう。何処かに此 赫きと色とを掬いとる 小籠はないか賢い ハンス・ア・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・ 自分はそれを見、正視するに耐えなかった。眼を逸し、さりげなく「安積から来た柿?」と、まつに話しかけた。「そうでございます。俵に一俵も来ましたの」 母は、黙って食堂に戻って行かれた。暫くして、自分も行く。―― 祖母が・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・しかし私は絶望する心を鞭うって自己を正視する。悲しみのなかから勇ましい心持ちが湧いて出るまで。私の愛は恋人が醜いゆえにますます募るのである。 私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断然押えつけてしまうつもりで、近ごろある製作に従事・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫