・・・ 井侯以後、羹に懲りて膾を吹く国粋主義は代る代るに武士道や報徳講や祖先崇拝や神社崇敬を復興鼓吹した。が、半分化石し掛った思想は耆婆扁鵲が如何に蘇生らせようと骨を折っても再び息を吹き返すはずがない。結局は甲冑の如く床の間に飾られ、弓術の如・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・すなわち私はその女の生涯をたびたび考えてみますに、実に日本の武士のような生涯であります。彼女は実に義侠心に充ち満ちておった女であります。彼女は何というたかというに、彼女の女生徒にこういうた。 他の人の行くことを嫌うところへ行け。・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・先頭に旗を立て、馬にまたがった武士は、剣を高く上げ、あとから、あとから軍勢はつづくのでした。じいさんは、いまから四十年も、五十年も前の少年の時分、戦争ごっこをしたり、鬼ごっこをしたりしたときの、自分の姿を思い出していました。 山へはいり・・・ 小川未明 「手風琴」
・・・やはり昔の武士で、維新の戦争にも出てひとかどの功をも立てたのである。体格は骨太の頑丈な作り、その顔は眼ジリ長く切れ、鼻高く一見して堂々たる容貌、気象も武人気質で、容易に物に屈しない。であるからもし武人のままで押通したならば、すくなくとも藩閥・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 彼の父母は元は由緒ある武士だったのが、北条氏のため房州に謫せられ、落魄して漁民となったのだといわれているが、彼自身は「片海の石中の賤民が子」とか、「片海の海人が子也」とかいっている。ともかく彼が生まれ、育ったころには父母は漁民として「・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・江戸は本所の方に住んでおられました人で――本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた処で、よく本所の小ッ旗本などと江戸の諺で申した位で、千石とまではならないような何百石というような小さな身分の人たちが住んでおりました。これもやはりそ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・奥州武士の伊達政宗が罪を堂ヶ島に待つ間にさえ茶事を学んだほど、茶事は行われたのである。勿論秀吉は小田原陣にも茶道宗匠を随えていたほどである。南方外国や支那から、おもしろい器物を取寄せたり、また古渡の物、在来の物をも珍重したりして、おもしろい・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・「武士だからな。」大隅君は軽く受流した。「それだから、僕だって、わざわざ北京から出かけて来たんだ。そうでもなくっちゃあ、――」言うことが大きい。「何しろ名誉の家だからな。」「名誉の家?」「長女の婿は三、四年前に北支で戦死、家族は・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ある武士的な文豪は、台所の庖丁でスパリと林檎を割って、そうして、得意のようである。はなはだしきは、鉈でもって林檎を一刀両断、これを見よ、亀井などという仁は感涙にむせぶ。 どだい、教養というものを知らないのだ。象徴と、比喩と、ごちゃまぜに・・・ 太宰治 「豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説」
・・・鞍山站の先まで行けば隊がいるに相違ない。武士は相見互いということがある、どうか乗せてくれッて、たって頼んでも、言うことを聞いてくれなかった。兵、兵といって、筋が少ないとばかにしやがる。金州でも、得利寺でも兵のおかげで戦争に勝ったのだ。馬鹿奴・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫