・・・ ここは武蔵野のはずれ、深夜の松籟は、浪の響きに似ています。此の、ひきむしられるような凄しさの在る限り、文学も不滅と思われますが、それも私の老書生らしい感傷で、お笑い草かも知れませぬ。先生御自愛を祈ります。敬具。 六月十日木戸・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・校や女学校の校長として、あちこち転任になり、家族も共について歩いて、亡父が仙台の某中学校の校長になって三年目に病歿したので、津島は老母の里心を察し、亡父の遺産のほとんど全部を気前よく投じて、現在のこの武蔵野の一角に、八畳、六畳、四畳半、三畳・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・お客が帰って、私は机の前に呆然と坐って、暮れかけている武蔵野の畑を眺めた。別段、あらたまった感慨もない。ただ、やり切れなく侘びしい。 なんじを訴うる者と共に途に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人にわたし、審判人は・・・ 太宰治 「鴎」
・・・東京市麹町区内幸町武蔵野新聞社文芸部、長沢伝六。太宰治様侍史。」 月日。「おハガキありがとう。元旦号には是非お願いいたします。おひまがありましたら十枚以上を書いていただきたい。小泉君と先般逢ったが、相変らず元気、あの男の野性的親・・・ 太宰治 「虚構の春」
満洲のみなさま。 私の名前は、きっとご存じ無い事と思います。私は、日本の、東京市外に住んでいるあまり有名でない貧乏な作家であります。東京は、この二、三日ひどい風で、武蔵野のまん中にある私の家には、砂ほこりが、容赦無く舞・・・ 太宰治 「三月三十日」
・・・ この男の姿のこの田畝道にあらわれ出したのは、今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作がかなたの森の角、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの櫟の大並木の間からちらちらと・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・初夏の武蔵野は檪林、楢の林、その若葉が日に光って、下草の中にはボケやシドメが赤い花をちらちら見せて居る。林を縁取った畑には、もう丈高くなった麦が浪を打って、処々に白い波頭を靡かして居る。麦の畑でない処には、蚕豆、さや豌豆、午蒡の樹になったも・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・ 帰路は夕日を背負って走るので武蔵野特有の雑木林の聚落がその可能な最も美しい色彩で描き出されていた。到る処に穂芒が銀燭のごとく灯ってこの天然の画廊を点綴していた。 東京へ近よるに従って東京の匂いがだんだんに濃厚になるのがはっきり分か・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・邦楽座や武蔵野館のようなものはどこにもなかったようである。各地に旅行中の夜のわびしさをまぎらせるにはやはりいちばん活動が軽便であった、ブリュッセルの停車場近くで見た外科手術の映画で脳貧血を起こしかけたこともあった。それは象のように膨大した片・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・それだから、カメラをさげて秋晴れの郊外を歩いている人たちはおそらく幾平方センチメートルの紙片の中に全武蔵野の秋を圧縮して持って来るつもりで歩いているのであろう。少なくも自分の場合には何枚かの六×九センチメートルのコダック・フィルムの中に一九・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
出典:青空文庫