・・・ 五分、十分、二十分、――時はこう言う二人の上に遅い歩みを運んで行った。常子は「順天時報」の記者にこの時の彼女の心もちはちょうど鎖に繋がれた囚人のようだったと話している。が、かれこれ三十分の後、畢に鎖の断たれる時は来た。もっともそれは常・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・彼は宿命を迎えるように、まっ直に歩みをつづけて行った。二人は見る見る接近した。十歩、五歩、三歩、――お嬢さんは今目の前に立った。保吉は頭を擡げたまま、まともにお嬢さんの顔を眺めた。お嬢さんもじっと彼の顔へ落着いた目を注いでいる。二人は顔を見・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりしているのを、彼は珍しいもののように後から眺めた。 物の枯れてゆく香いが空気の底に澱んで・・・ 有島武郎 「親子」
・・・彼れは悠々としてまたそこを歩み去った。 彼れが気がついた時には、何方をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり河面を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような渦紋を描いては消し描いては消・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ と語りもあえず歩み去りぬ。摩耶が身に事なきか。 二 まい茸はその形細き珊瑚の枝に似たり。軸白くして薄紅の色さしたると、樺色なると、また黄なると、三ツ五ツはあらむ、芝茸はわれ取って捨てぬ。最も数多く獲たるは紅・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・叔母は引添うごとくにして、その左側に従いつつ、歩みながら口早に、「可いかい、先刻謂ったことは違えやしまいね。」「何ですか。お通さんに逢って行けとおっしゃった、あのことですか。」 謙三郎は立留りぬ。「ああ、そのこととも、お前、・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ 子供は、その水たまりをのぞき込むように、その前にくると歩みを止めてたたずみました。「坊や、そこは水たまりだよ。入ると足が汚れるから、こっちを歩くのだよ。」と、父親はいいました。 子供は、そんなことは耳にはいらないように、笑って・・・ 小川未明 「幾年もたった後」
・・・ただ、いろいろな店の前を過ぎて、それらをながめてきたのでありますが、いま、おばあさんの店の前にさしかかって、ふと歩みを止めたのであります。 それは、一つのさらの中に、海ほおずきがぬれて光っていたからであります。 あや子は、これがなん・・・ 小川未明 「海ほおずき」
・・・そして、私の生活のすべてを犠牲にして、道なき道を歩みながら、寿子を日本一のヴァイオリン弾きに仕込みます」 氏神の前にそう誓ったのである。やがて、庄之助は長いお祈りを終えると、「さア帰ろう」 と、寿子の小さな手を握った。ヴァイオリ・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・彼は羨ましいような、また憎くもあるような、結局芸術とか思想とか云ってても自分の生活なんて実に惨めで下らんもんだというような気がされて、彼は歩みを緩めて、コンクリートの塀の上にガラスの破片を突立てた広い門の中をジロ/\横目に見遣りながら、歩い・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫