・・・こう言う彼等の戯れはこの寂しい残暑の渚と不調和に感ずるほど花やかに見えた。それは実際人間よりも蝶の美しさに近いものだった。僕等は風の運んで来る彼等の笑い声を聞きながら、しばらくまた渚から遠ざかる彼等の姿を眺めていた。「感心に中々勇敢だな・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
横浜。 日華洋行の主人陳彩は、机に背広の両肘を凭せて、火の消えた葉巻を啣えたまま、今日も堆い商用書類に、繁忙な眼を曝していた。 更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変残暑の寂寞が、息苦しいくらい支配していた。その・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「――その年の残暑の激しさといってはありませんでした。内中皆裸体です。六畳に三畳、二階が六畳という浅間ですから、開放しで皆見えますが、近所が近所だから、そんな事は平気なものです。――色気も娑婆気も沢山な奴等が、たかが暑いくらいで、そ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ たださえ行悩むのに、秋暑しという言葉は、残暑の酷しさより身にこたえる。また汗の目に、野山の赤いまで暑かった。洪水には荒れても、稲葉の色、青菜の影ばかりはあろうと思うのに、あの勝山とは、まるで方角が違うものを、右も左も、泥の乾いた煙草畑・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ 二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処ではございますが、この火の陽気で、人の気の湧いている場所から、深いといっても半町・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・走りまわり、行く先々で乞食同様のあつかいを受け、それでも笑ってぺこぺこ百万遍お辞儀をして、どうやら一円紙幣を十枚ちかく集める事が出来て、たいへんな意気込みで家へ帰ってまいりましたが、忘れも致しません、残暑の頃の夕方で女房は縁側で両肌を脱ぎ髪・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青の秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭に輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。 夕方藤・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
夏休みが終って残暑の幾日かが続いた後、一日二日強い雨でも降って、そしてからりと晴れたような朝、清冽な空気が鼻腔から頭へ滲み入ると同時に「秋」の心像が一度に意識の地平線上に湧き上がる。その地平線の一方には上野竹の台のあの見窄・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・熱つや苦しや、通風の悪い残暑の人いきれ。観音様が流行らないなら、モガの一人も張り飛ばして、食堂でアイスカフェーの食券一枚。 六 大家は大家で小家は小家、そして中家は中家で世紀はめぐる。鯛の頭に孔雀の尻尾。動物・・・ 寺田寅彦 「二科狂想行進曲」
・・・わたくしは『今戸心中』がその時節を年の暮に取り、『たけくらべ』が残暑の秋を時節にして、各その創作に特別の風趣を添えているのと同じく、『註文帳』の作者が篇中その事件を述ぶるに当って雪の夜を択んだことを最も巧妙なる手段だと思っている。一立斎広重・・・ 永井荷風 「里の今昔」
出典:青空文庫