・・・それが夜ででもあればだが、真昼中狂気染みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚られる、人の見ぬ間を速疾くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・奉公人への指図はもちろん、旅客の応待から船頭、物売りのほかに、あらくれの駕籠かきを相手の気苦労もあった。伏見の駕籠かきは褌一筋で銭一貫質屋から借りられるくらい土地では勢力のある雲助だった。 しかし、女中に用事一つ言いつけるにも、まずかん・・・ 織田作之助 「螢」
・・・静かに寝床の上で身動きもせずにいるような隣のおばあさんの側で枕もとの煙草盆を引きよせて、寝ながら一服吸うさえ彼女には気苦労であった。のみならず、上京して二日経ち、三日経ちしても、弟達はまだ彼女の相談に乗ってくれなかった。成程、弟達は久しぶり・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・撫で肩で、それを自分でも内心、恥じているらしく、ことさらに肘を張り、肩をいからして見せるのだが、その気苦労もむなしく、すらりと女形のような優しい撫で肩は、電燈の緑いろを浴びて、まぎれもなかった。頸がひょろひょろ長く、植物のような感じで、ひ弱・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・盲人は一曲終ってすぐさま、「更けて逢ふ夜の気苦労は――」と歌いつづける。 自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが・・・ 永井荷風 「深川の唄」
この雑誌の読者である方々くらいの年頃の少女の生活は、先頃まではあどけない少女時代の生活という風に表現されていたと思います。そしてそれは、そう言われるにふさわしい、気苦労のない、日常生活の進行は大人にまかして、自分達は愉快に・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・それだから向うへ着いて幾日かの間は面倒な事もあろうし、気の立つような事もあろうし、面白くないことだろうと、気苦労に思っている。そのくせ弟の身の上は、心から可哀相でならない。しかしまたしては、「やっぱりそうなった方が、あいつのためには為合せか・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫