・・・けれども、全部に負けた、きれいに負けたと素直に自覚して、不思議にフレッシュな気配を身辺に感じることも、たまにはあった。人間はここからだな、そう漠然と思うのであるが、さて、さしあたっては、なんの手がかりもなかった。 このごろは、かれも流石・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ところが十三回十四回頃からロスの身体の構えに何となく緩みが見え、そうして二人が腕と腕を搦み合っているときにどうもロスの方が相手に凭れかかっていたがるような気配が感ぜられたので、これは少しどうもロスの方が弱ったのではないかと思って見ていた。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・戦争の気配もないのに、大砲の音が遠くで聴え、城壁の周囲に立てた支那の旗が、青や赤の総をびらびらさせて、青竜刀の列と一所に、無限に沢山連なっていた。どこからともなく、空の日影がさして来て、宇宙が恐ろしくひっそりしていた。 長い、長い時間の・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 木の葉をわたる微風のような深谷の気配が廊下に感じられた。彼はやはり静かに立ち上がると深谷の跡をつけた。 廊下に片っ方の眼だけ出すと、深谷が便所のほうへ足音もなく駆けてゆく後ろ姿が見えた。「ハテナ。やっぱり下痢かな」 と思う・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・とにかく、船の上から軽く糸をあやつっていると、タコが来た気配は手にこたえる。そこで、サーッと引くと、タコはカギに引っかかってあがって来るのである。この引きどきがコツで、あやまると逃がしてしまうから、やはり腕がいるのである。 船底に引きあ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・これに堪えずして手を出だせば、ついに双方の気配を損じ、国内に不和を生ずることあらん。また国のために害ありというべし。左にその一例をしめさん。 今の民権論者は、しきりに政府に向いて不平を訴うるが如くなるは何ぞや。政府は、果して論者と思想の・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・には、そういう動揺の気配がよくあらわれている。腐敗した古い婦人団体の内部のこと、町の小さい印刷屋の光景、亀戸あたりの托児所の有様などいく分ひろがった社会的な場面をあやどりながら、何かを求めている女主人公朝子の姿が描かれている。朝子が何を求め・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第四巻)」
・・・解放への羽づくろいの気配なのである。 このことは、今日、地方に紙があり、印刷能力があるという偶然以上の意義をもっていることとして、十分に会得されなければならないと思う。 今はじめて、私たちは公然として人民たる自分を生かしはじめた。私・・・ 宮本百合子 「木の芽だち」
・・・ 私たちが、まだ十分自覚し用意していないすきに乗じて、再び人民に軛をかける金持、地主、ダラ幹の政党が、バッコしようとしている気配があるからです。 皆さん! 私たちの一票は、是非とも私たちの幸福のために使いましょう。 きのうの・・・ 宮本百合子 「幸福のために」
・・・ 紡績絣に赤い帯をしめた小娘のヤスの姿と、俄にガランとした家と、そこに絡んでいるスパイの気配とをまざまざ実感させる文章であった。仰々しい見出しで、恐らくは写真までをのせて書き立てた新聞記事によって動乱したらしい外の様子も手にとるよう・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫