・・・しかも一昨日の晩なぞは、僕が女に水晶の双魚の扇墜を贈ったら、女は僕に紫金碧甸の指環を抜いて渡してくれた。と思って眼がさめると、扇墜が見えなくなった代りに、いつか僕の枕もとには、この指環が一つ抜き捨ててある。してみれば女に遇っているのは、全然・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。 するとその地獄の底に、陀多と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢い・・・ 芥川竜之介 「蜘蛛の糸」
・・・何でも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折悪く河岸の西辰と云う大檀家の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣の胸に、熱の高い子供を抱いたまま、水晶の念珠を片手にかけて、いつもの通り平然と、読経をすませたとか云う事でした。「しかし・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ 阿闍梨は、手頸にかけた水晶の念珠をまさぐりながら、鋭く翁の顔を一眄した。「不肖ながら道命は、あらゆる経文論釈に眼を曝した。凡百の戒行徳目も修せなんだものはない。その方づれの申す事に気がつかぬうつけと思うか。」――が、道祖神は答えな・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・ そのうちに長い夏もやがて末になって、葡萄の果も紫水晶のようになり、落ちて地にくさったのが、あまいかおりを風に送るようになりますと、村のむすめたちがたくさん出て来てかごにそれを摘み集めます。摘み集めながらうたう歌がおもしろいので、燕たち・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ 一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、颯と揺れ、溌と散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀黄金、水晶、珊瑚珠、透間もなく鎧うたるが、月に照添うに露違わず、されば冥土の色ならず、真珠の流を渡ると覚えて、立花は目が覚めたようになって、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 清水はひとり、松の翠に、水晶の鎧を揺据える。 蝉時雨が、ただ一つになって聞えて、清水の上に、ジーンと響く。 渠は心ゆくばかり城下を視めた。 遠近の樹立も、森も、日盛に煙のごとく、重る屋根に山も低い。町はずれを、蒼空へ突出た・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶の浄土珠数一聯、とって十九のまだ嫁入前の娘に、と傍で思ったのは大違い、粒の揃った百幾顆の、皆真珠であった。 ・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・ 廻廊の縁の角あたり、雲低き柳の帳に立って、朧に神々しい姿の、翁の声に、つと打向いたまえるは、細面ただ白玉の鼻筋通り、水晶を刻んで、威のある眦。額髪、眉のかかりは、紫の薄い袖頭巾にほのめいた、が、匂はさげ髪の背に余る。――紅地金襴のさげ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・曰く、「(戊戌夏に至りては愈々その異なるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡の曇りたる故ならめと謬り思ひて、俗に本玉とかいふ水晶製の眼鏡の価貴きをも厭はで此彼と多く購ひ求めて掛替々々凌ぐものから(中略、去歳庚子夏に至りては只朦々朧々として細字を・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
出典:青空文庫