・・・口髭の先に水洟が光って、埃も溜っているのは、寒空の十町を歩いて来たせい許りではなかろう。「先日聴いた話ですが」と語りだした話も教師らしい生硬な語り方で、声もポソポソと不景気だった。「……壕舎ばかりの隣組が七軒、一軒当り二千円宛出し合・・・ 織田作之助 「世相」
・・・の頃は相当年輩の人だって随分お洒落で、太いセルロイドの縁を青年くさく皺の上に見せているのに、――まるでその人と来たら、わざとではないかとはじめ思った、思いたかったくらい、今にもずり落ちそうな、ついでに水洟も落ちそうな、泣くとき紐でこしらえた・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・というものの擂鉢の底をごしごしやるだけで、水洟の落ちたのも気付かなかった。 種吉では話にならぬから素通りして路地の奥へ行き種吉の女房に掛け合うと、女房のお辰は種吉とは大分違って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振りが余って腰掛・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・入口の門燈の灯りで、水洟が光った。「ここでんねん」 松本の横顔に声を掛けて、坂田は今晩はと、扉を押した。そして、「えらい済んまへんが、珈琲六人前淹れたっとくなはれ」 ぞろぞろと随いてはいって来た女たちに何を飲むかともきかず、・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・てのひらで水洟を何度も拭った。ほとんど足の真下で滝の音がした。 狂い唸る冬木立の、細いすきまから、「おど!」 とひくく言って飛び込んだ。 四 気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟きが幽かに感じられた。ずっ・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・私はハンカチで水洟を押えながら、無言で歩いて、さすがに浮かぬ心地でした。 三鷹駅から省線で東京駅迄行き、それから市電に乗換え、その若い記者に案内されて、先ず本社に立寄り、応接間に通されて、そうして早速ウイスキイの饗応にあずかりました。・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・三郎はその支那の君子人の言葉を水洟すすりあげながら呟き呟き、部屋部屋の柱や壁の釘をぷすぷすと抜いて歩いた。釘が十本たまれば、近くの屑屋へ持って行って一銭か二銭で売却した。花林糖を買うのである。あとになって父の蔵書がさらに十倍くらいのよい値で・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・街道の並木の松さすがに昔の名残を止むれども道脇の茶店いたずらにあれて鳥毛挟箱の行列見るに由なく、僅かに馬士歌の哀れを止むるのみなるも改まる御代に余命つなぎ得し白髪の媼が囲炉裏のそばに水洟すゝりながら孫玄孫への語り草なるべし。 このあたり・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・うつ向いていると水洟が自然にたれかかって来るのをじっとこらえている、いよいよ落ちそうになると思い切ってすすり上げる、これもつらかった。昼飯時が近くなるので、勝手のほうでは皿鉢の音がしたり、物を焼くにおいがしたりする。腹の減るのも・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫