・・・ 一疋の親の海豹が、氷山のいただきにうずくまって、ぼんやりとあたりを見まわしていました。その海豹は、やさしい心を持った海豹でありました。秋のはじめに、どこへか姿の見えなくなった自分のいとしい子供のことを忘れずに、こうして、毎日あたりを見・・・ 小川未明 「月と海豹」
・・・それでは弟達を呼んで呉れと言います。其処で私が、何故そんな事を言うのか、斯うしてお母さんと二人で居ればよいではないか、と言っても彼は「いいえ、僕は淋しいのです。それでは氷山さんの伯母さんでも」と言ってききません。「伯母さんだって世帯人だもの・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・弓矢、来い。氷山、来い。渦まく淵を恐れず、暗礁おそれず、誰ひとり知らぬ朝、出帆、さらば、ふるさと、わかれの言葉、いいも終らずたちまち坐礁、不吉きわまる門出であった。新調のその船の名は、細胞文芸、井伏鱒二、林房雄、久野豊彦、崎山兄弟、舟橋聖一・・・ 太宰治 「喝采」
・・・、おそろしく陳腐の言葉、けれどもこれは作者の親切、正覚坊の甲羅ほどの氷のかけら、どんぶりこ、どんぶりこ、のどかに海上ながれて来ると、老練の船長すかさずさっと進路をかえて、危い、危い、突き当ったら沈没、氷山の水中にかくれてある部分は、そうです・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・そのうちにとうとう僕たちは氷山を見る。朝ならその稜が日に光っている。下の方に大きな白い陸地が見えて来る。それはみんながちがちの氷なんだ。向うの方は灰のようなけむりのような白いものがぼんやりかかってよくわからない。それは氷の霧なんだ。ただその・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・そう云うときは、氷山の浮いている海の中へ飛び込むか、近くに海がなかったら、氷をうかべたコップの水の中へ飛び込むのが一等だ。」 よだかはがっかりして、よろよろ落ちて、それから又、四へんそらをめぐりました。そしてもう一度、東から今のぼった天・・・ 宮沢賢治 「よだかの星」
・・・かつてそのようにいいきった一人の作家が、いままた将来に期するというとき、戦争についてのこのような考えかた、感じかたは、まだ日本に海のなかの氷山のようにそのかくれた底を大きく存在させているということの証左である。石川達三の表現はその日本の氷山・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
・・・『ナップ』『プロレタリア文学』もそれに似た性格をもたずにいられなかったし、プロレタリア文化連盟は、地下におかれた階級的組織の氷山が、わずかに合法の水面に尖端を出した姿としての性質をもった。サークルにしても、そうなった。 当時のこのような・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
出典:青空文庫