・・・例えば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかったように、吉原の遊里もまたどうやらこうやら伝来の風習と格式とを持続して行く事ができたのである。 泉鏡花の小説『註文帳』が雑誌『新小説』に出たのは明治三十四年で、一葉柳浪二・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ その頃作った漢詩や俳句の稿本は、昭和四年の秋感ずるところがあって、成人の後作ったいろいろの原稿と共に、わたくしは悉くこれを永代橋の上から水に投じたので、今記憶に残っているものは一つもない。 わたくしは或雑誌の記者から、わたくしの少・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・ 濡れた水着のままでよく真砂座の立見をした事があった。永代の橋の上で巡査に咎められた結果、散々に悪口をついて捕えられるなら捕えて見ろといいながら四、五人一度に橋の欄干から真逆様になって水中へ飛込み、暫くして四、五間も先きの水面にぽっくり・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ その頃、繁華な市中からこの深川へ来るには電車の便はなし、人力車は賃銭の高いばかりか何年間とも知れず永代橋の橋普請で、近所の往来は竹矢来で狭められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた処から、誰れも彼れも、皆汐溜から出て三十間堀の堀・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方へと曲っているところから、橋の中ほどに佇立むと、南の方には永代橋、北の方には新大橋の横わっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・季節が少し寒くなりかかると、泳げないから浅草橋あたりまで行って釣舟屋の舟を借り、両国から向嶋、永代から品川の砲台あたりまで漕ぎ廻ったが、やがて二、三年過るとその興味も追々他に変じて、一ツ舟に乗り合せた学校友達とも遠ざかり、中には病死したもの・・・ 永井荷風 「向島」
・・・翌年の一月末、永代橋の上流に女の死骸が流れ着いたとある新聞紙の記事に、お熊が念のために見定めに行くと、顔は腐爛ってそれぞとは決められないが、着物はまさしく吉里が着て出た物に相違なかッた。お熊は泣く泣く箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅をやって・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ あるいは一時巨額の資本を附与せらるるとて、また、ただ幾百万円の金を無利足にして永代貸下ぐるの姿に異ならず。決して帝室の大事と称すべきほどのものに非ず。あるいは今の政府の財政困難にして、帝室費をも増すにいとまあらずといわんか。極度の場合・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・心理的に原因をさがすと、家庭の女性が余りドメスティケートされすぎ、極端に云うと永代女中頭みたいな点。都市の活動が緩慢で、時間と精力にゆとりがある故。――全く少し感情の強い現世的な人間が、あの整った自然の風景、静かな平らな、どこまでも見通しの・・・ 宮本百合子 「京都人の生活」
出典:青空文庫