・・・敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷き、八畳くらいの室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥に少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓を凌いだ。かれは病院の背後の便所を思・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・われわれ当時の自然児にはそれが汚いともなんとも思われなかった。これらの樹の実を尋ねて飛んで来る木椋鳥の大群も愉快な見物であった。「千羽に一羽の毒がある」と云ってこの鳥の捕獲を誡めた野中兼山の機智の話を想い出す。 公園の御桜山に大きな槙の・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・「神戸は汚い町や」雪江は呟いていた。「汚いことありゃしませんが」桂三郎は言った。「神戸も初め?」私は雪江にきいた。「そうですがな」雪江は暗い目をした。 私は女は誰もそうだという気がした。東京に子供たちを見ている妻も、やっ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭にして置けば閑静でよいと云って居られた。父にはどうして、風に吠え、雨に泣き、夜を包む老樹の姿が恐くないのであろう。角張った父の顔が、時・・・ 永井荷風 「狐」
・・・大きな口が更に拡がって鉄漿をつけたような穢い歯がむき出して更に中症に罹った人のように頭を少し振りながら笑うのである。然し瞽女の噂をして彼に揶揄おうとするものは彼の年輩の者にはない。随って彼の交際する範囲は三四十代の壮者に限られて居るのである・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ローマンチシズムは、己以上の偉大なるものを材料として取扱うから、感激的であるけれども、その材料が読む者聞く者には全く、没交渉で印象にヨソヨソしい所がある、これに引き換えてナチュラリズムは、如何に汚い下らないものでも、自分というものがその鏡に・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・乞食らしい穢い扮装ではございません。銅版画なんぞで見るような古風な着物を着ているのでございます。そしてそのじいっと坐っている様子の気味の悪い事ったらございません。死人のような目で空を睨むように人の顔を見ています。おお、気味が悪い。あれは人間・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・若い作者のおどろきに見はられた眼と心とを通じて、そこに描かれている穢いものまで、それが生活であるという真面目な光りを浴びている。中流の少女が、自分の環境から脱け出て、荒々しく生活の沸騰している場面に取材したということも、一つの特色であった。・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第一巻)」
・・・人が問うと、石鹸は石鹸でなくてはいけない、贋物を使う位なら使わないと云っている。五分刈頭を洗う。それから裸になって体じゅうを丁寧に揩く。同じ金盥で下湯を使う。足を洗う。人が穢いと云うと、己の体は清潔だと云っている。湯をバケツに棄てる。水をそ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・なんと汚い身体になったもんやないか。触ったら苔がめくれて来うが?」「お母を呼んでくれんか?」「今日はおらんぞ。お前これから何処へ行くつもりや?」 秋三は柴を下ろしながらそう云うと安次の傍へ蹲んだ。「何処って、俺に行くところが・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫