・・・一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆にも、そう云う話さえ持ち出した。 盗人にこう云わ・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・そして大粒の泪が蒼黝い皮膚を汚して落ちて来た。ほんとうに泣き出してしまったのだ。 私は頗る閉口した。どういう風に慰めるべきか、ほとほと思案に余った。 女は袂から器用に手巾をとりだして、そしてまた泣きだした。 その時、思いがけず廊・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 帰って鞄を開けて見たら、どこから入ったのか、入りそうにも思えない泥の固りが一つ入っていて、本を汚していた。 梶井基次郎 「路上」
・・・全体彼奴等に頭を下げぺこぺこと頼み廻るなんちゅうことは富岡の塾の名汚しだぞ。乃公に言えば乃公から彼奴等に一本手紙をつけてやるのに。彼奴等は乃公の言うことなら聴かん理由にいかん」 先ずこんな調子。それで富岡先生は平気な顔して御座る。大津は・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・だがひとたび不幸にしてその女性としての、本質を汚した女性、媚を売る習慣の中に生きた女性を、まだ二十五歳以下の青年学生の清き青春のパートナーとして、私は薦めることのできないものである。 彼女たちにはまた相応しき相手があるであろう。 い・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そのカラーを汚し、その靴を泥濘へ、象牙の塔よりも塵労のちまたに、汗と涙と――血にさえもまみれることを欲うこそ予言者の本能である。 しかもまた大衆を仏子として尊ぶの故に、彼らに単に「最大多数の最大幸福」の功利的満足を与えんとはせずに、常に・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 早や洗濯したての病衣を汚しくさって!」「あゝ、たまらん! あゝ、たまらん! おゝい! おゝい!」 呻きはつゞいて出てきた。 栗本は負傷することを望んでいた。負傷さえすれば、すぐ内地へ帰れると思っていた。そこには、母や妹や鬚むじ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・諸味は、古江の帆前垂から足袋を汚してしまった。「くそッ?」「ははははは……」 傍で袋をはいでいる者達は面白がって笑った。 仁助は、従弟が皆に笑われたり、働きが鈍かったりすると、妙に腹が立つらしく、殊更京一をがみがみ叱りつけた・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・しとするのは何故ぞや、言う迄もなく死刑に処せられるのは必ず極悪の人、重罪の人たることを示す者だと信ずるが故であろう、死刑に処せらるる程の極悪・重罪の人たることは、家門の汚れ、末代の恥辱、親戚・朋友の頬汚しとして忌み嫌われるのであろう、即ち其・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・京へかえることを主張したが、かず枝は、着物もひどく汚れているし、とてもこのままでは汽車に乗れない、と言い、結局、かず枝は、また自動車で谷川温泉へかえり、おばさんに、よその温泉場で散歩して転んで、着物を汚したとか、なんとか下手な嘘を言って、嘉・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫