・・・彼はただ道に沿うた建仁寺垣に指を触れながら、こんなことを僕に言っただけだった。「こうやってずんずん歩いていると、妙に指が震えるもんだね。まるでエレキでもかかって来るようだ。」 三 彼は中学を卒業してから、一・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・僕は当時長江に沿うた大抵の都会に幻滅していたから、長沙にも勿論豚の外に見るもののないことを覚悟していた。しかしこう言う見すぼらしさはやはり僕には失望に近い感情を与えたのに違いなかった。 江丸は運命に従うようにじりじり桟橋へ近づいて行った・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・鼠色に塗った壁に沿うて、黒い椅子が一列に据えてある。フレンチの目を射たのは、何よりもこの黒い椅子であった。 さて一列の三つ目の椅子に腰を卸して、フレンチは一間の内を見廻した。その時また顫えが来そうになったので、フレンチは一しょう懸命にそ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・……はじめは蘆の葉に縋った蟹が映って、流るる水に漾うのであろう、と見たが、あらず、然も心あるもののごとく、橋に沿うて行きつ戻りつする。さしたての潮が澄んでいるから差し覗くとよく分かった――幼児の拳ほどで、ふわふわと泡を束ねた形。取り留めのな・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ その年は八月中旬、近江、越前の国境に凄じい山嘯の洪水があって、いつも敦賀――其処から汽車が通じていた――へ行く順路の、春日野峠を越えて、大良、大日枝、山岨を断崕の海に沿う新道は、崖くずれのために、全く道の塞った事は、もう金沢を立つ時か・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・そのとき、汽車は、山と山の間を深い谷に沿うて走っていたのです。「まあ、山は真っ白だこと、ここから雪になるんだわ。」 年子は、思わずこういって目をみはりました。「山を越してごらんなさい。三尺も、四尺もありますさかい。おまえさんは、・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・…… 路に沿うた竹藪の前の小溝へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風のように立騰っていて匂いが鼻を撲った――自分はしみじみした自分に帰っていた。風呂屋の隣りの天ぷら屋はまだ起きていた。自分は自分の下宿の方へ暗い路を入って行った・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・ 六人の一人は巡査、一人は医者、三人は人夫、そして中折れ帽をかぶって二子の羽織を着た男は村役場の者らしく、線路に沿うて二三間の所を行きつもどりつしている。始終談笑しているのが巡査と人夫で、医者はこめかみのへんを両手で押えてしゃがんでいる・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・まだ炎熱いので甲乙は閉口しながら渓流に沿うた道を上流の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話しているのを見た。見て行き過ぎると、甲が、「今あの店にいたのは大友君じゃアなか・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 燃えるような恋をして、洗われる芋のように苦労して、しかも笛と琴とのように調和して、そしてしまいには、松に風の沿うように静かになる。それが恋愛の理想である。 ダンテを徳に導いた淑女ベアトリーチェ。ファウスト第二部の天上のグレーチヘン・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
出典:青空文庫