・・・北上川沿岸の平野には稲が一面に実って、もう刈入れるばかりになっているように見える。昨夜仙台の新聞で欠食児童何百という表題の記事を見て来たばかりの眼には、この目前見渡す限りの稲の秋は甚だそぐわない嘘のような眺めであった。豊葦原の瑞穂の国の瑞穂・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・安政元年十一月四日五日六日にわたる地震には東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海諸道ことごとく震動し、災害地帯はあるいは続きあるいは断えてはまた続いてこれらの諸道に分布し、至るところの沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・とあるのは、あるいは電光、あるいはまたノクチルカのような夜光虫を連想させるが、また一方では、きわめてまれに日本海沿岸でも見られる北光の現象をも暗示する。 出雲風土記には、神様が陸地の一片を綱でもそろもそろと引き寄せる話がある。ウェーゲナ・・・ 寺田寅彦 「神話と地球物理学」
・・・また瀬戸内海の沿岸では一体に雨が少なかったり、また夏になると夕方風がすっかり凪いでしまって大変に蒸暑いいわゆる夕凪が名物になっております。これらはこの地方が北と南に山と陸地を控えているために起る事で、気象学者の研究問題になります。しかし、こ・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
・・・それからこの颱風の中心は土佐の東端沿岸の山づたいに徳島の方へ越えた後に大阪湾をその楕円の長軸に沿うて縦断して大阪附近に上陸し、そこに用意されていた数々の脆弱な人工物を薙倒した上で更に京都の附近を見舞って暴れ廻りながら琵琶湖上に出た。その頃か・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・災害史によると、難波や土佐の沿岸は古来しばしば暴風時の高潮のためになぎ倒された経験をもっている。それで明治以前にはそういう危険のあるような場所には自然に人間の集落が希薄になっていたのではないかと想像される。古い民家の集落の分布は一見偶然のよ・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・これは一つには日本の海岸線が長くて、しかも広い緯度の範囲にわたっているためもあるが、さらにまたいろいろな方向からいろいろな温度塩分ガス成分を運搬して沿岸を環流しながら相錯雑する暖流寒流の賜物である。これらの海流はこのごとく海の幸をもたらすと・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・そうだとするとこれらの河童捕獲の記事はある年のある月にある沿岸で海亀がとれた記録になり、場合によっては海洋学上の貴重な参考資料にならないとは限らない。 ついでながらインドへんの国語で海亀を「カチファ」という。「カッパ」と似て・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・その頃はもちろん自動車はおろか乗合馬車もなく、また沿岸汽船の交通もなかった。旅行の目的は、もしも運がよかったら鯨を捕る光景が見られるというのと、もう一つは、自分の先祖のうちに一人室戸岬の東寺の住職になった人があるのでその墓参りをして来るよう・・・ 寺田寅彦 「初旅」
出典:青空文庫