・・・――それに友達が来るしね、仕舞いには皆が便宜を計ってくれてね、会計に居た津田なんて男――大胆な、悪賢い人でしたが、随分危険な真似するのよ、津田さんお花見に行きたいんだが金を都合して来て下さい、十五円て云うとね、うん、よしって、社の方へ沢山為・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・ ずっとそういう心持が流れていたところこの間或る機会に、明治初年の年表を見ていたらその中に『明六雑誌』というものがあり、福沢諭吉、西周、加藤弘之、津田真道等という顔ぶれに交って祖父の名が出ていた。『明六雑誌』というものは明治七年三月に第・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
・・・┌そうでないかと思うと┤ 三宅やす――つや子とのような親娘二人でおしゃれし 同性の 男性に対する同伴者となるようなもの└ 津田敏子と娘のようなの 本当の母娘関係少し。 京言葉「なあ、へ ×はん」・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・に到って、女の俗的才覚、葛藤は複雑な女同士の心理的な交錯に達して、妻のお延と吉川夫人が津田をめぐって、跳梁している。箱根の温泉宿で、これら二人の女に対蹠する気質の清子が現れたところで、私たちは作者の死とともに作品の発展と完結とを奪われたので・・・ 宮本百合子 「歴史の落穂」
・・・文部省は新しい教育をしようとしているかも知れませんが、東京女子大にしろ、津田英学塾にしろ、学生達の生活はみじめなものです。社会問題について研究会すら持たされません。その婦人達がやがて選挙権を行使するのですからその人々のためにも、日本のために・・・ 宮本百合子 「若人の要求」
・・・後に津田英学塾を設立した津田梅子が、六つの歳に岩倉具視の一行とアメリカへ留学したり上流婦人でも男に劣らない一般教育の基礎を持つ時代があった。今日、明治の先覚的な婦人として我々に伝えられているキリスト教関係の多くの活動的な婦人は、殆ど皆この前・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・江戸への注進には六島少吉、津田六左衛門の二人が立った。 三月二十四日には初七日の営みがあった。四月二十八日にはそれまで館の居間の床板を引き放って、土中に置いてあった棺を舁き上げて、江戸からの指図によって、飽田郡春日村岫雲院で遺骸を荼だび・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫