・・・書物は香炉の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせているのです。 婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――いや、支那服を着せられた妙子が、じっと椅子に坐っていました。さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろう・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ちょうど薄日に照らされた窓は堂内を罩めた仄暗がりの中に、受難の基督を浮き上らせている。十字架の下に泣き惑ったマリヤや弟子たちも浮き上らせている。女は日本風に合掌しながら、静かにこの窓をふり仰いだ。「あれが噂に承った南蛮の如来でございます・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・寝台、西洋せいようがや、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻も、――いや、しかし怪しい何・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・どうしてもふわりと浮き上らなければ水を呑ませられてしまうのです。 ふわりと浮上ると私たちは大変高い所に来たように思いました。波が行ってしまうので地面に足をつけると海岸の方を見ても海岸は見えずに波の脊中だけが見えるのでした。その中にその波・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・低味の畦道に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から真菰が長く延びて出た。蝌斗が畑の中を泳ぎ廻ったりした。郭公が森の中で淋しく啼いた。小豆を板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが小休むと湿気を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・次に浮きざまに飜った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。 ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八爺が押えたのが見える。押えられて、手を突込んだから、脚を・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・見りゃお前様もお浮きでなし、あっちの事が気にかかりますから、それじゃあお分れといたしましょう。あのね、用があったら、そッと私ンとこまでおっしゃいよ。」 とばかりに渠は立ちあがりぬ。予が見送ると目を見合せ、「小憎らしいねえ。」 と・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと気に入った。 僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになかった。隣りの料理屋の地面から、丈の高いいちじくが繁り立って、僕の二階の家根を上までも越している・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・けれども大船に救い上げられたからッて安心する二葉亭ではないので、板子一枚でも何千噸何万噸の浮城でも、浪と風との前には五十歩百歩であるように思えて終に一生を浪のうねうねに浮きつ沈みつしていた。 政治や外交や二葉亭がいわゆる男子畢世の業とす・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・英ちゃんは、釣りざおの糸をしらべたり、浮きをつけかえたりしていましたが、「もう生意気なことはいわんな。はいといえばつれていってやる。」と、いいました。「もういわんから、つれていってね。」「ああ、よし。」「うれしいな。」と、良・・・ 小川未明 「小さな弟、良ちゃん」
出典:青空文庫